野尻抱介blog

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まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その2 Jヴィレッジ&1F編)

まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その1 いわきクイーン編) のつづき。


 7月22日、いよいよ1F(福島第一原発)視察本番である。朝7時すぎに出発するので、こいと旅館は普通より早く朝食を出してくれた。寝不足だったが6時半に起きて広間に行った。
 料理は目で食べるもの、という風情の朝食には福島のソウルフード、いかにんじんが添えられていた。

 湯本から常磐道を通り、50分ほどで広野町にあるJビレッジに着いた。事故収束~廃炉作業の前線基地として借用されてきたが、今年中に明け渡す契約だという。

 ロビーにはサッカー関係の展示と原発作業員への激励メッセージなどが展示されている。
 写真右のガラス壁の向こうはサッカーのピッチだったが、現在は駐車場になっているのがわかる。 

 中庭みたいなところにプレハブの売店があった。弁当や菓子パン、カップ麺などが売られている。
 張り紙によれば日祝に加えて土曜も休みになった。作業が落ち着いてきたのか、他の店ができて需要が分散したせいかもしれない。

 売店のそばで猫がたくさん飼われていた。餌がたっぷり置いてある。
 作業員たちの癒しになるのだろう。船乗り猫みたいなものか。

 見学者はJヴィレッジ内で本人確認とレクチャーを受ける。申込時に指定した身分証明書(パスポートや運転免許証など)を示す。
 1F構内は保安上の理由から、自由な撮影はできない。見学者はカメラや携帯電話をここで預ける。
 今回は開沼さんが代表して撮影し、参加者は後でその写真の提供を受けた。左の写真以降、見学終了まで、特に断りがなければ開沼さんの写真である。

 東電のバスで1Fに向けて出発する。車内でも東電の人が解説したり、電離箱で線量を測ったりする。
 解説は手慣れていて、丁寧に教えてくれる。バスの前側、中央、後ろ側の三箇所に人を配置して質疑応答をしやすくしている。
「東電」と書いたが東京電力ホールディングスのもとに福島復興本社、福島第一廃炉推進カンパニーがあってややこしい。ここではひっくるめて東電と呼ぶ。

 左は福島県のサイトにあった図だ。広野町から6号線を北上していくと、富岡町で避難指示区域に入る。下の写真の撮影位置ははっきりしないが、避難指示区域は大体こんな眺めで、北川玉奴の歌そのままだ。ただし牛は見かけなかった。農地や道端に人がいたら、たいてい除染作業員である。


 富岡町のひとつ北が大熊町で、1Fの大部分はこの町内にある。国道6号から中央台の標識を右折すると1Fの敷地が見えてくる。


 バスは敷地の西端にある入退域管理施設の前で止まった。
 ここであこがれの白い防護服、タイベックに着替え――るわけではなく、ビニールの靴カバーと手袋を着用するだけだった。昨年末、糸井重里らが入ったときは簡単なマスクをつけていたが、それすらない。放射線オタクの私としては物足りない。
 しかし左のようにラックにびっしり収納された線量計を持たされたので、私のテンションは復活した。線量計ラックの張り紙に「警報設定値0.30mSv」とあって、μではなくm単位なのがさすがである。
 入退域を管理するゲートに入り、テンキーに指示された数字を入力すると内側の扉が開き、にこやかな係員に「はい、ご安全に」と声を掛けられた。
「『ご安全に』キターーーー!」と、私は心でガッツポーズを取った。私は四半世紀におよぶ放射線オタクなので、線量が高いほどテンションが上がる。1F事故のときは1か月後に喜び勇んで福島入りし、ホットスポットを巡ってはサンプル採集したものだ。願わくばここでも高線量の瓦礫を持ち帰りたい。実行はしなかったが、願いはした。
 昨夜のライブでは東北人のパワーに圧倒されたが、ここでは私がまつろわぬ民である。私は放射線に加えて巨大な建築物、工場や送電鉄塔やダムや橋や鉱山など、神をも恐れぬテクノロジーを見るのが三度の飯より好きだ。なんと言われようが、好きなものは好きだ。テクノロジーを築いてこそ、私は人類を愛する。

 再びバスに乗り、構内の道路を北進する。かなり樹齢のある並木があった。敷地内の森はタンク類を設置するためにかなり伐採されたが、所長が「ここは残せ」と指示したそうである。
「長丁場になるんだ、潤いがほしいじゃないか」
 そんなことを考えたのかもしれない。

 バスは東に向かい、乾式キャスク仮保管所の横を通って、免震重要棟に来た。事故当時の拠点となった、思い出深い場所だ。窓はすべて鉛で覆われている。このあたり、バス車内において、私物の線量計では7μSv/h程度だった。



 免震重要棟の玄関部分。靴を脱いでレジ袋に入れる。作業に必要な手袋類や飲料水が並んでいる。
 冷蔵庫のようなものに詰まっているのは保冷剤で、作業員はこれを体のあちこちにつけて暑さをしのぐ。
 大きなスクリーンには敷地内モニタリングポストの値が表示されている。オレンジ色のスポットが三つあるが、1~3号炉の近くだ。敷地の大部分は1~2μSv/hというところだろうか。



 免震重要棟の西隣にあるのが多核種除去設備、ALPS群だ。汚染水をフィルターする1Fの救世主だが、これも苦難の末に安定運用にこぎつけたものだ。事故直後はアメリカ製のキュリオン、フランス製のアレバを使ったがはかどらず、次に来たのが東芝製のサリーで、我々は「頼むぞサリーちゃん」などと言いながら応援していた。それもまだ不十分で、決定打になったのがALPSだ。
 ALPSも無印ALPS、増設ALPS、高性能ALPSと三代ある。写真左の家型の建屋は高性能ALPSで、その白さがただまぶしかった。写真右は無印ALPSだろうか? 内部に複雑な配管やタンク類が見える。
 汚染水の除去設備と聞いて、なんとなく「浄水器のでかいやつ」ぐらいに思っていなかっただろうか? 私は一応理解していたつもりだったが、生で見たALPS群の清潔感とボリューム感は圧倒的で、これ自体がちょっとした発電所並の設備だった。その横をゆっくりバスで通過するところは、スターウォーズの宇宙戦艦をすれすれに飛んでいる心地がした。
 ALPSの威力は絶大だが、トリチウム(三重水素)だけは取り除けない。トリチウムは化学的には水素なので、酸素と結びついて水の形で存在する。要するにただの水だ。それゆえ普通の水と分離できない。
 トリチウムは生物への影響がきわめて弱く、半減期はたった12年なので、薄めて海に流してしまえばいいのだが、風評というやるせない理由でそれができずにいる。皆が根拠のない忌避感さえ持たなければ、廃炉作業は進捗しコストも削減できて、全員ハッピーになるのだが。

 ALPS群の横を西進して交差点にさしかかると、海に向かう長い下り坂がちらりと見える。私は生で見損ねたのだが、開沼さんはここで素早く望遠撮影をしていた。
 遠くにカバーで覆われた1号炉、青い模様の残った2号炉の建屋があり、その向こうに海が見える。あの日、このスロープを濁流が駆け上ってきたのだ。

 バスはそのスロープを通らず、東南東に向かう道に入った。
 右手に汚染水タンク群が見える。写真左の青白いタンクは溶接型の新しいタイプ。右のフランジ型タンクは漏洩が起きやすいので、順次溶接型に置換しているとのこと。
 ちなみに、左は2013年8月27日に沖合10kmを航行する太平洋フェリーから撮影した1Fだ。左のほうの台地上にタンクがみっしり並んでいるのが見える。
 この光景を見たときは「トイレのないマンション」というフレーズが浮かび、その印象がずっと残っていた。
 フランジタンクが林立して敷地を圧迫し、漏洩のリスクも増大し続けるイメージだったが、今回の視察でずいぶんすっきりしているのがわかった。
 もしかして見学コースの周囲だけきれいにしているのでは?と疑って文献を確認してみたが、順調にリプレースされているようだ。

 台地部分から4号炉に向かう坂道を降りてゆく。右側の擁壁はフェーシング処理がしてあり、雨水の浸透を防いでいる。
 ここからの見どころは地下水の処理だ。線量が多くてあまりゆっくり見られなかったのが残念なのだが――

 これはHIT建屋だろうか。台地を降りたところ、1~4号炉と同じ高さにあるので、ここにも地下水が出入りするようだ。1~4号炉はおいそれと入れないから、このあたりの建物が地下水対策の試金石みたいな位置づけになるだろうか。質問すればよかったのだが、バスはどんどん進み、見どころは山ほどあるのでスルーしてしまった。 

 





 4号炉の横にKOBELCOの800tクローラークレーンが鎮座している。日本に何台あるだろうか、このクレーンだけでもちょっとした見ものだ。その履帯のすぐ横に51番サブドレンピットが見える。地下水位を調節するための井戸で、原子炉建屋の周囲にたくさんある。名前はよく聞くが、実際に見るととても小さい。
 道路を挟んで山側には凍土遮水壁を形成するための配管や観測井戸があった。凍土遮水壁の働きは、報道では不調ムードだったが実際には所期の成果が出ているとのこと。
 凍土遮水壁は地下にあるので目立たないが、これだけの領域を凍らせてコントロールするなんて、サンダーバードみたいな奇抜な方法をよく実行に踏み切ったものだと思う。

 4号炉はというと、ここは核燃料が炉心に装填されてなかったので、メルトダウンも起きなかった。ただ3号炉から流入した水素で水素爆発が起きて建屋が吹き飛んでいる。核燃料を納めたプールは健在で、ここから燃料棒を取り出す作業がすでに終了している。そのためにガントリークレーンを馬乗り式に据え付けた。写真で右側の太い骨組みと白いカバー部分がそれだ。馬乗りといっても、荷重は建屋にかかっていない。単一の荷下ろし作業のためにこれだけの大工事をやってのけたのはすごい。莫大な費用がかかった思うが、前例のないことをどんどん実行していけるのは、ある意味土木屋の夢ではないだろうか。

 バスは厚い鉄板を敷いた道を進む。3号炉の前にさしかかると急に線量が上がり、私の線量計99.99μSv/hになってオーバーフローしてしまった。3号炉のそばの排気筒が高線量だと聞いた。作業員もタイベックとフルフェイスのマスク姿だ。このあたりには津波の爪痕も残っている。
 写真左はこの位置から撮った1号炉と2号炉で、開沼さんはここでも素早く望遠撮影していた。
 私は「おおー、来たぜ来たぜ、これだよー」と心で叫んでいたのだが、バスはすぐに西に曲がって坂を登り、低線量地帯に移動してしまった。
 不謹慎をお詫びするが、これでも放射線オタクだから量的な限度はわきまえている。そもそも東電が見学者を危険にさらすわけがない。長居しなければいいのだし、ごく短時間の体験が一生記憶に残り、折にふれていろんなことを考える材料になるのだから、これは素晴らしい体験だ。廃炉が終っていない今がチャンスだから、みなさんも行ってみてはいかがだろうか。
 それでお前は何を思索したのかと聞かれると、ラジウム温泉に浸かったようなもので「いやあ、気持ちよかった」ぐらいしか出てこないのだが――まじめな話、発電用とはいえ人類が本気で濃縮した核物質は手強い。その実感は得られた。デブリ除去は相当な難工事になるだろう。近年のAI技術、ロボット技術の進展を思えば、意外にあっさり片付くかも?とも思うのだが。

 バスは北側の高台にまわり、5号炉6号炉の前を通った。この2基はほとんど被害を受けていない。
 事故直後、海水注入で活躍したコンクリートポンプ車が止まっていた。万一に備えて待機させてあるのだという。「ゾウさん」「シマウマ1号」とニックネームが貼ってあった。最近、とある映画で活躍したのを憶えている人も多いだろう。

 バスでの構内見学を終えて入退域管理棟に戻った。線量計の値は0.01mSvで、四捨五入を考えると5~14μSv被曝したことになる。これは三重県で暮らして数日程度の線量にすぎない。

 渡り廊下を通って、隣に新しくできた大型休憩所に移動する。1F初のコンビニ、ローソンが入っていて、日頃からコンビニに依存した生活をしている私は「ああ、これで安心」と反射的に思った。
 エレベーターで高い階に移動すると展望窓があって、構内が一望できた。

 そこには1Fの模型もあって、これがよくできていた。分割すると地層が現れ、遮水凍土壁と地下水の関係がわかる仕組みだ。原子炉の山側と海側に凍土壁を設けて地下水の移動をコントロールし、原子炉周辺のサブドレンピットから排水して地下水の圧力をほどよく保つ。化学実験室にあるドラフトチャンバーと似た考え方だ。サブドレンピットは原発の建設時からあって、施設全体を"地下水に浮かぶ船"のように想定していた。
 1Fは刻々と変化しているので、年次ごとにプラモデル化したらいいと思う。

 大型休憩所三階の食堂で、お楽しみの昼食をいただく。麺類や定食、丼物など、いろいろ選べるのだが、この日はこのトマトカレーが手書きPOPで強くおすすめされていたのでそれにした。地元産のトマトを大きく使い、ルーと混ぜると酸味と辛味が絶妙なハーモニーを奏でた。これで380円という安さだ。

 我々は1Fに別れを告げ、去年大熊町にできた福島給食センターに移動した。オール電化で3000食を一度に提供する能力がある。さっき食べたカレーもここで作られて、暖かいまま運ばれた。四角い建物の一辺が入荷バース、別の一辺が出荷バースになっていて、トラックが搬入出口に密着してどんどん運べる設計だ。
 写真がなくて残念だが、調理場をガラス越しに見下ろせる通路に案内された。
 説明してくれたのは、肩書きを忘れたが所長クラスの人で、「どうしても見学コースを作りたかったんですよ」と言った。大熊町の人が帰ってきて、ここで働いているところを見てほしい、と言う。そして地元食材の使用で風評被害の払拭、食を通して1Fと地元の交流が生まれるのを期待している。
 実際、舌と胃袋で感じるリアリティは格別で、文章や写真では伝わらない。地元食材を地元の人が作り、1Fで働く人々と「同じ釜の飯を食う」ことで距離感が一気に縮んだ気がした。レストランを開いて一般販売したらいいと思う。

 ツアー一行はJヴィレッジに戻り、解散となった。ガイドしてくれた東電のスタッフはどなたも誠実で、事故への謝意とともに、ここで起きていること、試みていることを、できるだけ伝えようとしていた。
 私は来る前から1Fが好きで強い関心を持っていたから、謝意だけでなく、スタッフが抱いている誇りや「ここを見せたい」という思いにも気づけたつもりだ。バス車中での解説、各所にある見学者への気配り、ルート設定、大型休憩所の展望窓や模型、給食センターの見学コースなどに「見て見て、ここを見て」「ここまできたよ」という気持ちが横溢していたと思う。
 オタクという種族はこれが得意なのだが、1Fのような複雑なシステムを好きになるには、まず対象をよく知り、理解することだ。理解すればそれを構築した人の姿や思いが浮かび上がってくるから、面白さや見どころがわかってくる。これはスポーツ観戦と同じだ。
 さらに好きが高じると他の原発や火力・水力発電所なども調べ上げ、比較し、一晩中蘊蓄を語れるようになる。見学もリピーターになってガイドの人と顔なじみになり「おや、冷媒の配管が変わりましたね?」「そうなんですよぉ!」みたいな会話を繰り広げ、一般人を置き去りにするのだが、そこまでやる必要はない。そうなる前の段階で、漠然とした嫌悪感や恐怖感は雲散霧消していることだろう。

 さて、見学レポートからは少し外れるが、私の東電に対する認識を語っておこう。
 いまの日本において「東電」「福島第一原発」は諸悪の代表のように言われることがよくある。そういう人がこの記事を読めば「お前はなんでそんなに無邪気なの?」と首を傾げるだろう。その疑問に答えるためだ。
 1F事故で東電を恨む人は少なくないが、私は当初から「この事故は日本全体で受け止めるべき」と言ってきた。確かに、10mを超す津波が押し寄せる可能性は事故前にも指摘されていた。だが、ただちに万全の対策が取れただろうか。想定する災害が10年に一度、100年に一度、1000年に一度、と頻度が下がるほど、対策の規模とコストは指数的に大きくなる。頻度が稀なのにコストは巨大になるわけだ。そんな想定に、ただちに応じられるだろうか。
 これは被災地のすべてについて言えることだ。いつか大津波が来ることはわかっていた。多くの被災地はできるかぎり備えていたが、備えきれず、これを天災として地域全体で負っている。
 1Fには東電という明確な責任者がいるが、責任者がいれば人災と決めつけていいのだろうか。本質的には天災に備えきれなかった地域のひとつではないか。誰かを吊し上げるより、地域全体で力を合わせていく場面ではないか。

 東電の隠蔽体質ということもよく指摘される。そこには正しい指摘もあるだろう。
 あの時、東電に求められた最善の対応は原子炉の状態を正確に伝えることだった。だが、あの時点でそれを知る人は地球上にいなかった。
 次善の対応としては予想を語ることしかない。
 東電は事故当時、楽観的な予想ばかりを語り、それはどんどん裏切られていった。メルトダウンという刺激的な言葉も避けようとした。
 だがあの時、最悪の可能性ばかり語っていたら、無理な避難を引き起こし、福島で2000人にも及んだ災害関連死はもっと増えただろう。いっぽう5年経った今も、放射能そのものによる死者は確認されていない。東電の発表は自身の信用を失ったが、被害を最小化する点では善戦したのではないか。

 異論もあるだろうが、私はそういう認識でいるので、東電や1F関係者を無駄に恨んだり、不信感を持つことはないと思っている。
 東電の言うことなんか信じられるか、と突っぱねていたら、いつまでたっても事態は前進しないだろう。1Fの状況については頻繁に資料を公表しているから、少し頑張れば検証できる。民間組織でこんな大規模な作業をしていたら、そうそう嘘などつけないことがわかるはずだ。

 今回の視察で印象に残ったのは、現場がすっきりと整理整頓されていて、混乱がみられなかったことだ。そして真新しいテクノロジーに満ちている。
「ここはもう廃墟ではない。人類最先端の建設現場だ」と思った。ひとつの敗戦処理ではあるし、苦悩と恐怖から始まったことは確かだが、それは出発点の話でしかない。
 いま1Fで進められていることはアポロ計画に匹敵する、大胆に新しい技術を投入した、最先端の開拓事業だ。強固で巨大な建築物に入り、溶けて固まったデブリを取り出す技術があれば、どんな極限作業もこなせるし、宇宙開発や惑星探査にも応用できるだろう。技術だけでなく、地域社会との協調や相互理解のメソッドにも大きな挑戦がある。ここで得られた知見は世界中がお手本にするにちがいない。

 1Fはいずれ、福島の宝になると信じている。お花畑といわれそうだが、これでもSF作家だから、未来観には少々心得がある。現代が過去より悪くなったためしはない。昔が良く思えるのは自分の若い頃がなつかしいからで、社会は常に改善している。
 未来が良くなる最大の要因は、テクノロジーが進歩するからだ。テクノロジーは人を幸福にするとは限らないが、人の自由度を確実に増やす。その自由度が幸福を模索する。

 私が想像する1Fのゴールは、敷地全体を使った大きな公園だ。広い駐車場と道の駅があって、地元の産品が売られている。小さな遊園地や野外ステージ、セミナーハウスや宿泊施設もある。修学旅行のバスもここに立ち寄る。
 免震重要棟は展示館になり、ここに至るまでの歴史が映像や模型で説明されている。
 ロボットが運転するカートに乗って坂を下りていくと、海辺に大きな正方形の花壇が四つ、見えてくる。北側のひとつは少し小さく、かつての原子炉建屋の輪郭をかたどったものだとわかる。子どもたちはその眺めにもすぐ飽きて、遊覧船に乗ろうと言い出す。防波堤には釣り人と、カモメに餌を投げる人がいる。
 私はベンチに腰掛け、遊覧船を待ちながら、潮風の香りをかぐ。そしてポケットから線量計を出して――小さなため息をつき――「あの頃は熱かったなあ」と感慨にふけるのだ。