野尻抱介blog

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『風立ちぬ』の感想とか飛行機とか計算尺とか

「『風立ちぬ』はポニョではない。安心しろ、ポニョではない」
 そんなツイートを読んで、久しぶりにジブリ作品を映画館で観てきた。
 その通りだった。『風立ちぬ』は、幻想が交錯したり飛躍があったりするのに、きちんと始まってきちんと終わる、折り目正しい映画だった。こういうのはトトロ以来ではなかろうか。脳天気な娯楽映画になるはずが考えすぎてバランスを失した『紅の豚』の失敗点をきれいに回収していて、宮崎監督の集大成的な作品になったと思う。

 この映画は、1930年代の航空機設計者を描いている。
 飛行機の設計は難しい。どんな飛行機も調和と妥協の産物で、どこかの性能を伸ばすと別のどこかが悪くなる。映画の主人公、堀越二郎は厳しい制約のもとで、脳裏に描く理想の飛行機に少しでも近いものを作ろうとしている。
 二郎は秀才肌で、目配りが細かく、日常で目にするあらゆる事柄が飛行機の設計に結びついていく。煮魚の骨に翼型を見いだしたとき、彼は何か面白いことを言おうとしているのではない。素でそう思っただけなのだ。拙著『ふわふわの泉』の冒頭で味噌汁のベナール対流に見入ったヒロインと同じだろう。その態度は味噌汁を用意した母親を苛立たせるが、本人は何も含むところはなく、純粋な興味を向けているにすぎない。研究開発に携わる人は、そういう気質を持つことが多い。

 どんなに研究に打ち込んでいても、食欲と性欲は並立するものだから、二郎も食事をするし、恋をする。二郎の恋愛を薄情だと解釈した感想があったが、私はそうは思わなかった。この映画は、航空機設計と恋愛をともに「美の探求」として統合したのではなく、単に並立して描いているのではないだろうか。
 あの時代、日本は戦争に突き進んでいた。
 あの時代、飛行機を造るなら軍用機しかなかった。
 あの時代、日本の製造技術は低かった。
 あの時代、結核は不治の病だった。
 ――等々、個人にはどうすることもできない時代の流れの中で、一人の技術者が、できる限りのことをした。この映画はそれを描いたのであって、それ以上でも以下でもないと思う。

 宮崎駿が本性全開の映画を作れないのは鈴木プロデューサーのせいだ、というのがオタク界の通説だが、真偽は知らない。
 ともかく、この映画は飛行機オタクの蘊蓄に溺れず、きれいにまとまっている。にもかかわらず、随所に刺さるところがある。以下にそのことを述べよう。映画の感想ではなく、連想に基づく自分語りだから、興味がなければここで読むのをやめてもらったほうがよい。

 私は大戦機や古典機に詳しくないが、佐貫亦男や柳田邦男の本で当時のことはそれなりに知っているつもりだ。堀越二郎といえば96式艦戦、零戦、沈頭鋲、剛性低下式のリンケージなどがパッと浮かぶ。
 堀越二郎が活躍した、WW2が始まるまでの10年間、1930年代は航空界のゴールデンエイジと言われていて、魅力的な飛行機がたくさん出てくる。軍用機よりは民間機が好きな私は、この時代の飛行機のゴム動力フライング・スケール機をいくつか制作している。

 これはフェアチャイルド24。(紹介ページ)
 飛行機を知らない人が見たら、現在のものと区別がつかないかもしれない。初飛行は1932年(昭和7年)で、アメリカでは裕福な民間人が自家用機として使ったほか、軍隊でも軽輸送機として使われた。

 これはデ・ハビラント DH.80A プス・モス。(紹介ページ) 
 1929年に初飛行した英国機で、日本でも社用機として使われた。

 動画では、朝日新聞社の神風号(雁型通信連絡機。神風特攻機ではない)のプラモデルを使ったものがある。宮崎駿も描いてきた飛行への思いを、私なりに表現したつもりだ。


 脱線するが、極東~欧州を最速で飛んだ神風号は、当時一世を風靡した。戦前、昭和12年製のフライング・スケールキットが、長野の飯沼飛行士記念館にあったので、その写真も貼っておこう。当時はバルサ材がなかったが、桐材や桧材を集めて豪華なセットにして売られていた。模型航空界も黄金時代だったのだ。
 もっと簡素な一本胴のゴム動力ライトプレーンは戦前、国策で普及がはかられた。戦後も1970年代までは子供が小遣いで買って作るキットの定番だった。

 ゴム動力機の飛行会や競技会は現在でも細々と続いている。下の動画はその様子を撮影したものだ。


 映画でも描写されているが、堀越二郎は機体のフラッター(異常振動)や空中分解に悩まされた人だった。これについてはカルマン渦という現象を知っておくといいだろう。下の動画では、交互に発生するカルマン渦に引きずられて円筒が振動する様子を実験で再現している。特定の流速で大きく共振すると、飛行機なら空中分解に至ることがある。

 『風立ちぬ』での飛行機の壊れ方は、ちょっと破片が細かすぎるように思う。動翼などはもっと大きく、バタッとちぎれるのではないだろうか。たぶん監督もそうと知りながら、二郎の心象風景としてあのように描いたのだと思う。設計者にとっては、我が身を引き裂かれるような思いにちがいないからだ。

 『風立ちぬ』は計算尺が活躍することでも話題になった。私は計算尺が好きで、30本ほど持っている。三菱に入社してから二郎が使っているのは、当時としては新型の両面型だ。
 計算尺のトップブランド、ヘンミ計算尺が初めて両面型を製造したのは昭和4年(1929年)、7式艦戦の設計が始まったのが昭和7年だから矛盾はない。尺の構成がかなり高級で、戦後のタイプのようにも見えたが、詳しいことはわからない。
 下の動画で初めと終わりに登場する直線型の計算尺は、二郎が使っていたものにそっくりだが、戦後に造られて最後までカタログに載っていたものだ。

 有効桁が3桁ほどしかない計算尺で飛行機の設計なんてできるの?と思った人もいるだろうが、もちろん可能だ。飛行機の設計は経験則の塊で、えいやっとすませて風洞実験や実機で確かめることを繰り返す。流れそのものをコンピュータで鬼のように数値計算して風洞実験を省略できるようになったのは、つい最近のことだ。
 映画で二郎が表を数値で埋めている場面は、10個程度の候補をパラメトリックに並べて吟味したり、実験するつもりだったのではないだろうか。

 そんなわけで『風立ちぬ』は私に多くのことを喚起してくれた。こんな映画を作れるのは宮崎駿しかいない。第二の宮崎駿を生むためには、戦争からやりなおすしかないのだろうか、と思うほどだ。