野尻抱介blog

尻Pこと野尻抱介のblogです

『白いクスリ』について

http://news.goo.ne.jp/article/php/life/php-20090919-02.html
 この記事を見て思い出したので、『白いクスリ』について整理しつつ考えてみたい。
 私の考えは、削除に反対である。「『白いクスリ』は容認して、利用規約を改訂し、関係者すべてが意識を改めるべし」が結論になる。
 私は法律の専門知識がないので、述べるのは理想論だけだ。その実現性や現行法との兼ね合いは考慮していない。

(1) 初音ミクの歌唱を個人の誹謗中傷に使って良いか。
 良くない。だがクリプトンやヤマハはその使途について口出しできない。責任はすべて作者に帰すべきである。

(2) 『白いクスリ』は個人の誹謗中傷か。
 字義どおりにとれば誹謗中傷にあたる。だが本件はそれ自体で独立した事件ではない。背景に麻薬事件があり、裏切られたファンの憂さ晴らしともとれる。「のりピーにはがっかりだよな。みんなでグチろうぜ」という意識が『白いクスリ』製作の背景にあったと思われる。時事問題の風刺歌とも考えられ、酒井法子にとっては、このうえ大きなダメージはないと思われる。

(3) 『白いクスリ』は創作作品にあたるか。
 低俗な替え歌・風刺歌であり高度な芸術性はないが、機知に富んだ歌詞や、音源をそつなく調整している点で創作作品とみなせる。また後述のとおり、この議論で芸術性や創作性の多寡は重要ではなく、むしろ積極的に無視すべきである。

(4) 本件は初音ミク及びそのユーザーのイメージを悪化させたか。
 心配にはあたらない。報道されたのは「初音ミクの悪用例」であって、悪用ばかりされていると受け取る人は少ないだろう。包丁が凶器になったからといって、包丁を武器だと思い込む人はいない。むしろ本件は初音ミクの可能性を知らしめる機会であり、大いに活用すればよかったと思う。
 また「世間から後ろ指をさされるのでは」と恐れたユーザーは、自らの精神を顧みるがいいだろう。社会的評価に支えられなければVOCALOIDを使えないというのなら、しょせんその程度でしかない。それがゼロである時に道を拓いた者がいたことを想起すべきである。

(5) 『白いクスリ』が削除されなければ、なにかいいことはあるか。
 特にないが、削除しないことには意義がある。
 かつて鈴木宗男の不正が問題になったとき、ムネオ・ハウスというムーブメントが起き、興味深い文化的収穫となった。
 芸術としての『白いクスリ』はムネオ・ハウスの諸作より低レベルだが、やはり抹消されるべきではない。こうしたものが片隅にあってこそ、文化は多様性・健全性を保てる。文化を育むのは混沌である。
 背景ノイズが消えたとき、人は静寂の不自然さに気づくものだ。こうしたものは「なぜ在るのか」「在る必要はない」「ならば排除せよ」などと判断してはならない事柄である。
 『白いクスリ』は在っても大した意味はなさそうだが、それは作品の質の問題にすぎない。いっぽう排除を許すことは反文化的な態度であり、社会全体の問題である。

(6) ファン側にある「みんなのアイドル、初音ミクを汚すな」という声はどうか。
 「みんなのアイドル、初音ミク」までは慣用的に使っていいが、その後に主張がつく場合は立場を明確にする必要がある。このような言い回しは十中八九、我田引水である。
 初音ミクはみんなのアイドルではない。ユーザーの数だけ初音ミクは存在する。
 誰かが汚れ仕事をさせたからといって、「みんなの初音ミク」が汚されたなどと考えるべきではない。これはユーザーや視聴者全体が持つべき見識である。
 実際、シリアスからコメディまで、初音ミクは実に多様な描かれ方をしていて、皆はそれを許容している。気に入らないものにだけ全体主義で当たるのはおかしい。
 VOCALOIDにロボット工学の三原則をあてはめよう、という口当たりのいい提案もあったが、いま述べた理由から否定する。VOCALOIDは福祉の道具ではない。
 「だって現に不愉快だもの」というなら、それは小児的な《自分の気持ち至上主義》にすぎない。甘受すべき不愉快は存在する。

(7) 結局、どう対応すればよかったか。
 クリプトン、ヤマハ、そしてユーザーや視聴者全体のそれぞれに、改めるべきことがある。
「本件は表現内容に属する事柄なので、弊社はこの件に介入しません。当事者間で解決してください」
 クリプトンはこう回答すればよかった。そのためにはクリプトンおよびヤマハ利用規約から表現内容への禁止事項を削除すべきである。この利用規約は、免責をねらって生まれたように思えるが、それがかえって苦渋の決断を迫られる原因になっている。
 表現とは、利用規約ごときで縛れるものではない。現代芸術には、動物の臓器を床にぶちまけた作品もある。美しいばかりが芸術ではない。目先の不快感でこれを排除してはならない。
 排除すべきは歌唱以外での使用で明白な犯罪、たとえば「初音ミクを使って藤田咲になりすまし、電話で金品を要求する」ケースであろう。この場合は既存の法律の範疇だから、規約に盛り込むまでもない。
 VOCALOIDに普通に歌唱させた作品の表現内容については、クリプトンもヤマハも声優も、何も口出しできないことを承知しておくべきだ。またユーザーや視聴者は、どんな表現が行われようとクリプトンやヤマハや声優の問題ではないとする見識を持つべきである。すべての責任は作者本人に帰する。
 現に利用規約には「ユーザーが何に使おうと、当社は責を負わない」とする免責事項がある。責任逃れに使っている文面を、なぜ規約の根幹に置けないのか。

 どんな内容であれ、すでにそういう契約をしているのだから従うべきだろう、という意見も多かった。その通りだ。しかし批判はしていいだろう。さもなくば物事は良くならない。
 こんな非文化的な利用規約は改定すべきであり、少なくとも継承してはならない。そしてこのような条項を不要にするだけの見識を、皆が持つべきである。
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 私が特に懸念するのは、クリプトンが今回の判断を示したことで、年若いユーザーたちが「良い子」になろうとすることだ。なにしろクリプトンはユーザー思いの会社であり、私を含めて多くの支持を集めている。だが多数派の希望とは峻別しなければならない事柄がある。
 誰かがきわどいことをやって人気を集める。すると「先生、○○君がこんな歌うたわせてます」と言い出す者が現れる。それは多数意見になりがちだ。そして先生が「それはいけませんね」と判断を示す。歓声を上げる多数派――
 表現の場において、これは悪夢のような光景だ。
 ボカロ界ではすでに一度あった。デッドボールP作品の削除だ。彼がタフな奴でよかったと思う。『白いクスリ』の作者は引退してしまった。クリプトン、ニコニコ動画、視聴者がそろって削除支持にまわれば嫌気もさすだろう。今回の削除は一人のクリエイターの人生を変えてしまったのかもしれない。データは手元に残っているだろうが、発表の場を失うことは死刑宣告に等しいことである。
 創作物の削除とはこのように酷なものであって、それを主張できるのは同じくらいの痛みをこうむった者だけである。クリプトン、ヤマハニコニコ動画、他のユーザーや視聴者の誰にその資格があるだろうか。
 表現とは先鋭化するものであり、タブーに斬り込んでいくものだ。それを打ち負かしたければ、頭ごなしのルールではなく、表現の範疇で競うべきである。

初音ミク・名曲ガイド

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