野尻抱介blog

尻Pこと野尻抱介のblogです

東北紀行(2) 桜の山と瓦礫の海

 4月16日、磐越道でいわきから郡山に移動し、国道4号を北上した。山間部を抜けると急に展望が開け、福島盆地に入った。盆地の気候は夏暑く冬寒いことが多いが、いまはなにしろ桜の季節である。山々に囲まれ、馥郁たる杜の都、という風情だった。
 市街で最初に出会ったマクドナルドでインターネットにつなぎ、ホテルを予約した。明日は花見だから、今夜ぐらいはホテルに泊まってさっぱりしようと思ったのだった。
 福島駅周辺での飲み会メンバーを募ると、白石のしっとマスクさんが来てくれることになった。明日の花見では飲めないから今夜飲みましょう、とのこと。駅前で待ち合わせ、東口の歓楽街で店を探した。「久兵衛」という居酒屋の看板が目にとまった。
「おっ、キュウベエって店がありますよ」と私。
「わはは、ほんとですね」
 入口の掲示板に旬の料理が手書きしてある。
「……ここでもいいかな?」
「ネタにもなりますしね」
 機を見てはネタに走るのがニコ厨の習性だ。



 店に入るとそこらじゅうに白いぬいぐるみが転がり、猫耳をつけた女の子が席に案内してくれた――なんてことは全くなく、普通の居酒屋だった。
 刺身やタラの芽の天ぷら、ホタテのバター焼きなどを賞味しながらビールが進む。
 しっとマスクさんは白石市のタクシー運転手で、自分の営業車をクリプトンのVOCALOIDキャラクターで痛車化した、通称ミクタクシーで有名な人だ。
 大学が原子力関係だったそうで、福島市程度の線量では動じることもない。楽しく飲んでいると近くの席から「マイクロシーベルト」という言葉が聞こえてきた。
「まさか居酒屋でこの言葉を聞くことになるとは」と、しっとマスクさん。白石市福島市はほんの30kmほどの距離だが、温度差があるようだ。
 などと言いつつもこの面子では深刻になりようがなく、ますます酒が進んだのだった。

 翌日は午前10時頃にホテルを発ち、4号線を北上した。県境を越えて1時間とかからず白石市に入り、馬牛沼のほとりで線量を測った。郡山市福島市に較べるとほぼ半減している。西に雪を湛えた蔵王がそびえ、福島県中通りの地形を脱したのがわかる。白石のあたりを境に仙台平野が始まり、道路と平行する白石川は太平洋に向かって流れている。
 花見客だろうか、国道が渋滞しはじめたので、橋をわたって右岸の県道に入り、こちらも混雑していたが12時半頃、船岡城跡公園にたどりついた。駐車場に向かうと、見覚えのあるタクシーが前にいた。鏡音リン・レンのステッカー。アンテナにネギ。ミクタクシーだ。
 並んで車をとめ、しっとマスクさんとともに城跡の山を登る。待ち合わせ場所のスロープカー乗り場に着いた頃には汗をかいていた。巨大観音像がある頂上まではまだ100mほどあるが、スロープカーは運休だった。毎年恒例の桜まつりも今年は中止の看板が出ている。

 今回の地震に被災された皆様、並びに関係者の方々へ。

 甚大な被害と悲しみを残し、いまだ終わりの見えない震災にご苦労されていることと思いますが、しばたの桜はいつも通り、きれいな花を咲かせてくれました。
 桜まつりは中止しましたが、しばらくは悲しみを忘れ、花の美しさをご自由にご覧ください。来年こそ、笑顔で桜の花の季節を迎えられますよう、ご祈念いたします。
 心を尽くした言葉とはこれをいうのだろう。平易で飾らない、国語のお手本になりそうな文章である。
 桜まつりが中止されたのは、安易な自粛などではなく、トイレの復旧が不十分なことが主な理由のようだ。それは苦渋の判断だったにちがいない。冬が厳しいだけに、東北の人の桜への思いは強いようだ。そのことは「一目千本桜」と呼ばれる、白石川土手の桜並木で感じた。これは翌日に再訪して撮影した風景だ。





 花見に集まったのはボカロ系(VOCALOID愛好者)が主力で、検証Pが音頭を取ってくれた。全員覚えきれてないのだが、12〜13人も集まっていただいた。吉田さん、飯淵さん、Psyp/PPORさん、スナフキンP、ネムイさん、しっとマスクさん、AHSの尾形社長、neroさん、rwalkerさん、オサコレP。市職員、自動車整備工場、デザイン関係、農家、運送など、職業もさまざまだ。
 桜の木を一本独占して、ブルーシートをひろげ、持ち寄った飲み物やつまみをひろげてまったりと宴会する。公園は賑わっていたが、例年は芋を洗うような混雑になるそうだから、それに較べれば「閑散としている」が近いのだろう。快晴・無風の好天下、東北随一といわれる満開の桜のもとで花見ができたのは小さな奇跡だった。




 話題はやはり震災のことが多く、私は興味深く耳を傾けた。
 外から見ていると、この震災は津波原発事故ばかりが目立つ。だが実際に現地の人が直面しているのは、身の回りのさまざまな問題だ。地震で散らかった部屋の片付け、家屋の損傷、ゴミの処理、インフラの復旧、商店の営業、自分の携わる業務の変化、避難所の運営など、多岐にわたっている。ありふれた規模の地方社会が、とてつもなく複雑な役割分担の上に成り立っていることがわかる。「これを真っ正面から描写できるのは小松左京ぐらいだな」などと、つい考えてしまった。







 17時頃、花見はお開きになり、駐車場でミクタクシーの撮影会をした。駐車場に向かって歩いていくと、花見客の一人が身を屈めてミクタクシーを熱心に見ていた。
「お仲間がいる」「ガン見してるよ」「やはりいたか、隠れミク廃」
 などと言いながら近づいていったのだが、その人は我々と接触する前に行ってしまった。もしこのblogを読んでいたら名乗り出てほしい。
 ミクタクシーは痛車としては一見おとなしいが、キャラクターを営業活動に使わない旨、クリプトンと正規に契約して公式イラストを使っている点で高いポテンシャルを持つ。個人をベースとしたボカロ現象の拡がりを示す、指標的な存在といえよう。車内にはさまざまなボカロ・アイテムが配され、液晶モニタで動画を再生することもできる。これも営業使用ではなく、わかる人が乗車したとき希望に応じて再生するとのことだ。
 LPGタンクに切り絵の「東方」キャラが貼ってあったりするのも細かい。なお、ガソリン欠乏のおり、LPGの供給は続いたので、ミクタクシーも大活躍したそうだ。また、AEDを搭載しており、そのサインがMMDのミクになっていたりもする。
 白石市は戦国BASARAのキャラクターで町おこししていたりもする。風間市長はこうしたものに理解があるそうだ。

 その夜遅く、仙台東部道路を北上して石巻に向かった。今回の旅では宮城の津波被災地には行かないつもりだったのだが、花見の席で石巻まで簡単に行けると聞いた。早朝なら復旧作業の邪魔にならないようなので、見てみることした。
 仙台東部道路から三陸自動車道に乗り換え、矢本PAで一泊する。翌朝5時頃起きて、車内で湯をわかし、カップ麺と焼き鳥の缶詰を食べた。災害派遣自衛隊車両に続いて石巻河南インターで降りる。
 石巻港を一巡したあと門脇地区に入ったところで圧倒された。すでにニュースでもおなじみの爆撃跡のような光景が、ほとんどそのまま残っている。燃える瓦礫が押し寄せた門脇小学校が痛々しい。
 そこを東進して旧北上川べりに出た。ヨットや漁船があちこちに乗り上げている。石巻駅方面に行こうとして、日和山の麓のせまい路地に入り込んでしまった。軽自動車がぎりぎり通り抜けられるスペースを残して、道の両側は瓦礫や災害廃棄物が山積していた。

 石巻街道、マンガロードを通って内海橋を渡り、女川街道を東進する。ここも津波の跡が生々しく、とんでもないところに自動車が刺さっていたりする。
 万石浦あたりの被害は小さかったようだが、女川市街に入ると凄惨な眺めになった。三階建てぐらいの鉄筋ビルが積み木のように転がっている。濁流が通り抜け、鉄骨だけになった建物も多い。
 女川港の手前で、高台に町立病院が見えた。病院は健在だが、その一階まで水が来たというから、自分はいま水深20mぐらいのところを走っているのだな、などと思った。
 女川港で車を止め、あたりを撮影した。時刻は7時をまわっていて、工事車両や自衛隊の車両が増えてきた。邪魔になりそうなのでこれ以上進むのはやめて、石巻に引き返した。

 石巻と女川についてはこの動画にまとめた。よく知られた被災地だが、4月18日時点の様子を伝えることには意味があると思ったからだ。
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 時間が前後するが、今回の旅で最初に見た津波被災地は小名浜だった。常磐道を勿来インターで降りて、国道6号を北上した。小名浜港に向かう道を進むと、道端に瓦礫や水をかぶった家具が増えてきた。港に出ると視界が開け、瓦礫の中に漁船が転がっているのに愕然とした。
 休業中のローソンの駐車場に車を止めて周囲を歩いた。地元ナンバーの車が止まり、降りてきたおじさんが携帯電話で周囲を撮影しながら「こりゃまー、えらいことになっとるなあ」とつぶやいていた。小名浜港は横浜の山下公園のような洒落たスポットになっていたようだが、無残なことになっていた。海鮮料理の食堂も多く見られ、「ここで食べたらうまいだろうな」と思うと心が痛んだ。










 正直なことを言おう。津波被災地はどこも凄惨な光景だったが、自分がそれを楽しまなかったと言ったら嘘になる。にやにやしながら見物して回ったのではない。だが「すごい」と思った自分の心を省みれば、その一部で楽しんでいたことを認めるしかない。
 ビルがあり得ない向きに転倒していたり、街なかに遠洋漁船が鎮座していたり、家屋の二階に自動車が突き刺さっているさまは現代彫刻そのものだ。そこにはひとつの調和の美があった。比重1の液体が土砂や固体の破片とともに流れ、往復した。それが市街地を一定のトーンで塗り替えたために、アートに類似する光景を作った。アートにおける「一定のトーン」は芸術家が企図することだが、ここでは自然が代わりをつとめたのだった。
 町は人間が作ったのだから、人と自然が協同して作った光景かというと、そうでもない。家々がそこに建てられたのは、世帯ごとの事情によるのであって、全体を統括するシムシティのプレイヤーのような存在はない。地域全体の視点からは、人間の意図というより、自己組織化する粒子のようなものと見なせるだろう。そこに地震津波が作用した。

 土地を選び、家を建て、菜園を耕し、隣家からの目隠しに塀をめぐらせ、門柱を飾った――そうした個人の営みから、海岸の平野部に居住地がひろがっていったマクロな過程まで、すべてに目配りすることがこれからの復興に求められている。
 私が今回の観察から伝えたいことは、つまりこういうことだ。市街地は複雑系であるから、計画的な復旧・復興は途方もない難事業で、社会のあらゆる層が同時に動かなければ解決しない。それは困難だが、同時進行する限り、ライフゲームのようにめざましく進行していくことも確かだ。道路が直れば重機が届く。水道が出れば汚れを洗い出せる。昨日まで手が出せなかった障碍も、一日ごとに誰かが解決し、やれることがどんどん増えていく。被災者は一人ではなく、世界中が手を差し延べていることも、きっと実感されるだろう。
 行政にも被災者にも外部の支援者にも不満は蓄積しているだろうが、どうか他人には優しくあってほしいと思う。誰もが困難な闘いをしているのだから。
 ものの本によると、世界の大災害のあとにはきまって理想の復興計画が立てられるが、たいてい住民の反対に遭ってうやむやになるらしい。これは複雑系の宿命だから、自分たちの地域がそうなっても絶望しないでいよう。それは復興が民主的に行われている故のことだ。