野尻抱介blog

尻Pこと野尻抱介のblogです

まつろわぬ人々の福島食い倒れツアー

まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その1 いわきクイーン編)
まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その2 Jヴィレッジ&1F編)
まつろわぬ人々の相馬野馬追ツアー
 の続き。

小名浜
 ここに来るのは2011年9月以来だったので、「すっかり復興したなあ」とまず思った。まだあちこち工事しているので「すっかり」とは言えないが、アクアマリンふくしまといわき・ら・ら・ミュウが元気なので、ここだけで一日遊べる状態だ。

 今回はら・ら・ミュウのある第1号埠頭で半日すごした。レストラン、海産物売り場、展示室などがある複合施設だ。
 地元のM月さんと合流して、福島グッズをもらったり、回転寿司をおごったりした(安いお返しで申し訳ない)。


 海産物売り場では生ウニ、岩牡蠣をその場でいただいた。安くて新鮮でうまい。材料を買ってその場でバーベキューできるコーナーもある。

 ら・ら・ミュウの海側には駆逐艦汐風を埋めた桟橋がある。左は震災前からあるタイルだが、艦尾の輪郭が示してある。その先は新しい桟橋を工事していた。

 二階には震災直後の避難所の様子が再現展示してあった。写真右は炊き出しのおにぎり(模型)。


 ら・ら・ミュウの前で発着している遊覧船ふぇにっくすも復活していた。スナック菓子を差し出したり投げると、カモメやウミネコがわらわら集まってきて楽しい。船内でもかっぱえびせんが売られているので、出航後も弾薬補給ができる。


 遊覧船から見えたもの。左は沖合に建設中の人工島と陸を結ぶ臨海道路の橋。もう完成しているように見える。中央はウの棲息地になっている照島。バックに勿来発電所の煙突が見える。右はカヤックフィッシングする人たち。
 なお、勿来発電所は映画『フラガール』にも登場した常磐炭坑の石炭を燃料としていた。この地域の炭田の衰退が常磐ハワイアンセンター、福島第一、第二原発を建設する流れを作っている。

●四倉編

 小名浜からルート6に入って北上していくと、道の駅よつくら港に着いた。初めて来る場所だ。この駅舎内にある食堂がなかなかいいと聞く。しかしまち歩きマップを見たら近くに「くさの根」という食堂があったので、そちらに行ってみた。あなご天丼を食べてみたが、あなごの肉の厚みにびっくりした。
 なお、四倉のまち歩きマップは四倉小学校6年生と日大理工学部岡田研究室が協力したワークショップで作られたものだ。
 常磐道の四倉パーキングエリア(上り)にある産直や よつくら亭
はパーキングエリアにあるまじき地元食堂感が評判だと教えられた。
 人気メニューは刺身定食だが、私はイワシの蒲焼き丼をいただいた。こってり濃厚な味だった。

川内村
 阿武隈山中にある川内村は私の大好きな場所で、今回で4回目の訪問になる。これまでは田村市側からアプローチしていたが、県道36号線が全面開通したので富岡から簡単に行けるようになった。
 富岡町は避難指示地域で、ルート6や常磐道、県道36号線を通過することはできるが、それ以外のほとんどの道路はバリケードで封鎖されている。
 36号線を西進する途中には除染作業員のプレハブ宿舎やスクリーニング場があった。

 滝川渓谷を通り、トンネルをいくつか抜けて川内村中心部にさしかかると、新しくできたショッピングセンター、YO-TASHIが見えた。
 食堂は休業日だったが、ファミマで生鮮品や酪王カフェオレが買えた。

 かわうちの湯の駐車場の一角にある「あれ・これ市場」は川内村における道の駅的存在だ。地元の産品をいろいろ買い込んだ。
 かわうちうどんは製麺所のご主人が機械の設定を間違えて作りすぎたとかで1kgパックと500gパックで格安販売していた。この写真には写っていないが、私は「かわうち味噌」がお気に入りで、2袋購入した。
 レジで「近くで開いてる食堂ありますか?」と聞いたら、YO-TASHI、たかやま倶楽部、かわうちの湯、いわなの郷、を教えてもらった。


 たかやま倶楽部に行ってみた。蕎麦を石臼で挽くところからやっていて、蕎麦打ち体験もできる。「高原野菜天ざる」をおいしくいただいた。ここは川沿いの市街地からすこしだけ山に入ったところにあって、眺めも素晴らしい。

 川内村には千扇川という素敵な渓流がある。この透き通った流れの中で釣りをするのが毎度の楽しみだ。
 震災後、漁協による川魚の放流はしていないので、入漁券は要らない。禁漁ではないが、釣った魚を食べるのは自己責任で、とのことだ。まつろわぬ私は「よろしい。釣れた魚は天然物ってことだな」と思って張り切るわけである。

 ルアーやフライでも釣ってみたいが、雑魚釣り道具しか持ってきていない。
 したがって、最初にやることは餌の確保だ。落ち葉の積もった林道の側溝を掘ると、みみずがいくらでも採れた。山の斜面を降りてきたみみずがU字溝でトラップされる構図だ。

 東作のフナ竿にヤマメ鉤を結び、太いみみずをつけて落ち込みに振り込む。と、黒い影がすっと寄ってきて――釣れた。ヒレピンの岩魚だ。サイズもまあまあなので、キープする。


 川縁に焚き火の跡があったので、火をおこして、釣った岩魚をじっくり炙り焼きした。買ったばかりのかわうち味噌を塗りつけた。
 味噌が焦げ、魚からおつゆがぽたぽた落ち始めた頃合いでがぶりとやった。
 思わず「うめえ!」と声が出た。こんな脂の乗った岩魚は初めてだ。
 放射能は大丈夫かって? 2011年には600Bq/kgくらいの魚がいたが、その値でも私は気にしないし、現在なら汚染なしと見ていいだろう。スーパーで普通に売っている「やさしお」が9000Bq/kgなことを思えば、2桁や3桁Bq/kgで騒ぐことはない。放射線リテラシーの第一歩は、ベクレルという単位の相場観を持つことだ。
 デザートは林道に散らばっていたサルナシの実。まわりをみてもサルナシの蔓が見あたらず、何者が運んできたのかわからない。サルナシというぐらいだから、猿かもしれない。
 サイズは小さいが、見た目も味もキーウィフルーツそっくりで、鮮烈な酸味と甘味を味わった。

 釣りを堪能したあとは、かわうちの湯につかった。事故直後は生活用に部分営業していたが、その後改修して全面オープンになった。
 湯上がりに食堂でサバ味噌定食をおいしくいただいた。これもかわうち味噌を使っていると思う。ここの蕎麦はたかやま倶楽部で打ったものだそうだ。

 今回の福島旅行はこの川内村が最後で、来た道を戻って帰途についた。
 往路でも見えたが、富岡町新福島変電所に送電線が四方八方から集まっていて壮観だった。私は送電鉄塔が好きなので、車を止めて写真を撮りまくった。



 新福島変電所は1970年代のはじめ、原発にあわせて建設された。この変電所が地震でダメージを受け、1Fに送電できなくなったことが、1F事故の遠因になったとされている。

 富岡からは常磐道を通ったほうが早いが、最後にもう一度、ルート6の眺めを味わった。






 竜田一人の漫画『いちえふ』、北川玉奴の歌『ルート6』にも登場する広野火力発電所の二本煙突(実際には少し離れてもう一本ある)。
 このときは夕方だったが、陽を浴びて煙突のトップが輝く様子に見入った。
 私にとっても広野火力の煙突は思い出深い。2011年4月16日にルート6を北上したとき、警察の検問であえなくUターンし、二ツ沼総合公園からあの煙突を見上げたのだった。
 当時ひっそりしていた公園もいまは復旧し、温浴施設やレストランが営業されている。

 久しぶりの福島は――まわったのは浜通り川内村だが――もう不便なところはほとんどなくなっていて、線量も放射線オタクの私には物足りなくなってしまった。
 にもかかわらず、送電線や煙突、車の列、川の流れ、野山の緑、道行く人々、商店の棚など、何を見ても物語が読み取れて、福島は私を飽きさせない。また訪れるとしよう。

まつろわぬ人々の相馬野馬追ツアー

まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その1 いわきクイーン編)
まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その2 Jヴィレッジ&1F編)
の続き。
 1Fツアーは解散したが、私は引き続き一人で福島をほっつき歩いていた。週末から南相馬野馬追(のまおい)だと聞いたので、ぜひ見なくてはと思い、7月23日土曜日の宵、ルート6を北上して南相馬で一泊した。車中泊を覚悟していたが、たまたま電話してみた国道沿いのホテルが「キャンセルで一部屋空いてますのでお泊めできます」とのことで、そこに入った。

 翌朝7時すぎにチェックアウトして、臨時駐車場のひとつ「公園墓地」に車を止めた。7時50分頃だったが、車はどんどん入ってきていて、満車寸前だった。今日は三日間の野馬追の中日にあたる本祭りで、常磐線原ノ町駅の南西にある雲雀ヶ原祭場地が会場になる。駐車場からは徒歩10分くらいだった。

 8時すぎ、祭場地南ゲート付近の様子。天気は断続的な小雨で、野馬追では珍しいとのこと。「カンカン照りじゃないと野馬追って気がしねえな」と言うおじさんもいた。
 祭場地の南北に二つのゲートがあり、当日入場券もそこで買える。私も入場券を買ったが、祭場地でのイベントは午後からなので、まずは北からやってくる「お行列」を見ることになった。

 9時頃、祭場地の西を通る陸前浜街道の様子。沿道に見物人がたくさんいるが、幕張や有明で経験するような殺人的混雑ではない。9時半からスタートするお行列がここを通るので、自由に歩き回って好きな場所で眺められる。予約すれば桟敷席もある。
「これより騎馬行列がまいりますが、人、馬とも、たいへん勇んでおりますので、前を横切ったり、カメラのフラッシュを浴びせないようにお願い致します」 というアナウンスが流れている。
 私はこの意味をよく理解していなかったので、後で大失敗してしまった。


 9時半をまわると、赤い消防車輌に先導されて、南下するお行列が見えてきた。かっぽ、かっぽという馬の足音も響いてくる。すごい、馬も甲冑も幟旗も本物だ! 騎馬500騎、歩行(かち)武者が400人という大行列である。色とりどりの幟旗も目を奪う。こんな軍勢を隠しているから東北は油断ならない。
 列順は中ノ郷(原町区)を先頭に小高郷(小高区)、標葉郷(浪江町双葉町大熊町)、北郷(鹿島区)、宇多郷(相馬市)になる。この地名からわかるとおり、原発事故の影響をもろに受けた地域だが、事故当年の2011年も相馬三社に分けて神事のみを実施している。


 法螺貝を吹き鳴らしたりもする。女性や子供もいる。女性武者は二十歳未満で未婚という規定がある。男女非対称だが、伝統行事なのでいまのところはそうなのだろう。
 さて、街道の東側にいた私はヨークベニマルで弁当を買おうと思い、行列の切れ目ができたのを見計らって道を渡った。すると後続の先頭にいた騎馬武者が馬を小走りさせて駆け寄ってきて、鞭か何かで私をびしり!と指し、
「○×◎△□◇!!」と、ものすごい形相で怒鳴ったのである。
 何を言っているかわからない。怒っているのはわかる。
「あの、ええと…」
「○×◎△□◇!!」 騎馬武者は引き続き、憤怒の形相で怒鳴る。
「すみません、どういう…」
 すると近くの人が小声で「戻れ、戻れ」と言った。
 道を横断したのが悪かったらしい。私は再び東側の沿道に戻った。それからまわりの人に、
「どうもすみません、なんかすごく怒られちゃいました、お騒がせしました」と詫びた。
 すると地元のおばさんが、
「あー、知らない人はわかんないよねえ。お行列はすごく厳粛なもんだから、前を横切っちゃだめなんだ」
「そうそう、二階の窓から見るのもだめだし、昔は帽子かぶるのもだめだったんよ」
 と、もう一人のおばさんが言った。
 そういえば前を横切ったりフラッシュをたくな、とアナウンスしていた。行列の切れ目ならいいというものではないのだ。沿道の人が騎馬武者に手を振るところもあまり見なかった。武者が知り合いの見物人と、親しげに言葉を交わすところは見かけたのだが。
「今日はあの人たちがいちばん偉い日だから」「今日だけはね」
 そう言っておばさんたちはちょっと笑った。
 なるほどー。私は馬上からド叱られた困惑が晴れて、すっかり感心してしまった。私は役に入ってロールプレイできる人を無条件に尊敬してしまうたちだ。
 そうこうするうちに100mほど北側で、また一悶着起きた。私の時は単騎だったが、こんどは四、五騎が不届き者を取り囲んでわあわあ怒鳴っている。先行していたグループも歩みを止めて振り返っている。すごい緊迫感である。
 写真は撮ってなかったが、印象としては左のペンギンコラみたいな感じだ。
「ひええ… いきなりあんな目に遭ったら、私だったら泣いちゃうなあ…」
 思わずそうつぶやくと、近くにいたおじさんたちが振り返ってわははと笑った。
「いやあ、あたしらもこれが楽しみで来てるようなもんなんだ」
 さっきのおばさんも笑って言った。
 不届き者が態度を改めたのか、お行列は何事もなかったように再開した。
 私はますます感動してしまった。体験乗馬をしたことがあるのだが、馬というのはなかなか思い通りに動かないものだ。なのにあの騎馬武者たちは不届き者を見つけるなり素早く包囲して怒鳴りつけた。その馬術、立ち居振る舞いや発声が、恐いけど、すごく様になるのだ。

 不届き者がいなくても、本物の甲冑をまとった武者は、普通に行進するだけでハシビロコウのような威厳を放射する。まるで時代劇をVR体験しているみたいだった。
 こりゃあ、みんな野馬追に熱中するわけだ。こんな本気の祭りがあったら、この日のために一年間頑張れるなあ、と納得した。
原発事故の年もやったんですってね?」と、おばさんたちに聞いてみると、
「いやあ、あの年は避難してたからよくわかんねえ」という返事だった。

 野馬追は和風リエナクトメントでもある。元々が神事のふりをした軍事訓練なので、ミリタリーファンの人はぜひ生で見てみるとよい。刀は抜かないが、戦国時代の甲冑や馬具が、ちゃんと機能して全力を発揮する様子がわかる。馬はレンタルもあるが、甲冑は本人が所有して維持し、骨董品に1000万円以上かける人もいるという。
「これがまつろわぬ人々の祭りかあ…」と思い知ったわけだった。

 11時すぎ、赤い母衣(ほろ)を背負った総大将が通って、お行列は終った。沿道の見物人たちも雲雀ヶ原祭場地に向けてぞろぞろ移動し始める。路上には馬の落とし物が点々と残っていた。

 雲雀ヶ原祭場地のグランド面を「はら」、スタンド席になる斜面を「やま」という。やまの中央にあるつづら折りの道は羊腸の坂といい、競技に勝った騎馬が駆け上がる見せ場だ。

 当日券の私に、いい席は残ってなかった。やまの最高部に行ったが、松の木が邪魔であまりよく見えない。適当に座ったりうろうろしながら見物した。この頃には雨はほとんど止んでいた。


 正午、甲冑競馬が始まった。普通の競馬のようなゲートはなく、北側の直線路からよーいどんで発走してトラックを一周する。兜はかぶらないようだが、甲冑をつけた武者が大きな旗をはためかせて疾走するのだからすごい。これまで私は、甲冑の騎馬武者は歴史上の美景にすぎず、実際にはあまり戦力にならなかっただろうと思っていたので、一瞬で目から鱗が落ちた。あれは実用の兵装なのだ。


 出走を終えて羊腸の坂を上がってくる騎馬武者たち。みんないい顔をしている。女子騎手も凛々しいものだ。坂の上で景品らしき紙袋をもらって降りてゆく。


 続いて、神旗争奪戦が始まった。グランド内にすべての騎馬が集まり、神輿を担いだ神職が通る。色とりどりの旗が満ちて目覚ましく、「これは旗の祭りだ」と思った。旗幟鮮明の言葉どおり、所属をでかでかと示して戦う。なにごとも匿名でやるネット文化の対極にあるものだった。


 神旗争奪戦では花火を使ってストリーマーが打ち上げられる。この神旗を奪い取った者が勝ちだ。神旗の落下点では騎馬が団子になっていて、遠目にはよくわからなかった。勝者は神旗の数だけだから、羊腸の坂を駆け上がるときはソロになる。この姿がインディ・ジョーンズのようにかっこよく、騎手は嬉々としている。

 落馬して救急車が呼ばれたり、馬だけが坂を駆け上がってくるハプニングもあった。逆に、疲れたのか坂を上がろうとせず、手綱を引かれる馬もいた。こうしたことは野馬追ではよくあることらしく、皆なごやかに見物していた。


 15時頃、「〇〇殿に申し上げる。只今をもって神旗争奪戦を、閉じる!」「承知!」というアナウンスがあって、野馬追本祭りのプログラムは終了した。騎馬武者たちは三々五々解散していった。
 Twitterを見ると漫画『いちえふ』作者、竜田一人さんも野馬追見物に来ていたので、連絡を取って合流した。竜田さんによるとこのあと小高で火の祭りがあって、震災後休止していた花火が今回復活するという。じゃあ小高で現地集合しましょう、ということになった。

 小高は震災後何度か訪れていた場所だ。線量は低いのだが1Fに近いゆえ、長く立ち入り制限されていた。2012年5月に初めて来たときは商店街のあちこちに地震で傾いた家屋が残っていた。
 臨時駐車場に指定されている小高区役所に車を止め、小高駅から商店街を歩いてみた。


私はひなびた商店街が好きで、福島はそういう商店街の宝庫だ。小高の商店街はまだ復興の途についたばかりだが、アンテナショップ希来(きら)、東町エンガワ商店、小高商工会館などの拠点ができていた。

 竜田さんは小高駅の近くで営業している浦島鮨という寿司屋に入って「ここおいしいよ」とツイートしてくれていたが私は気づかず、サンマートの裏手にある小高川で釣りに熱中していた。婚姻色の出たカワムツが釣れた。

 日暮れの頃、小高川べりの道路に集まって花火を待った。花火は小高川の一本北側にある前川べりにセットアップされていた。
 南相馬に移住した柳美里さん一家も来ていて、竜田さんに紹介してもらった。柳さんの話では、小高川には希少な水生昆虫がいるとのことだった。

 19時頃、神主さんが祝詞をあげると、遠くの道沿いにかがり火がともされた。火の祭りは騎馬行列が帰るとき、沿道に提灯などの明かりをともしたのが始まりだそうな。

 そして目の前で打ち上げられた花火はすごい迫力。距離が近いせいか、音楽にあわせた創作花火もきれいにきまった。竜田さんもしきりに歓声を上げていた。
 柳さん一家は終電が近いとのことで、終了間際に急いで帰っていった。近くに車を持ってきていたので、お送りすればよかったと後悔している。
 竜田さんと別れ、私は道の駅南相馬の駐車場で車中泊した。明日はルート6を南下して川内村に行ってみる予定だ。
(つづく)

まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その2 Jヴィレッジ&1F編)

まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その1 いわきクイーン編) のつづき。


 7月22日、いよいよ1F(福島第一原発)視察本番である。朝7時すぎに出発するので、こいと旅館は普通より早く朝食を出してくれた。寝不足だったが6時半に起きて広間に行った。
 料理は目で食べるもの、という風情の朝食には福島のソウルフード、いかにんじんが添えられていた。

 湯本から常磐道を通り、50分ほどで広野町にあるJビレッジに着いた。事故収束~廃炉作業の前線基地として借用されてきたが、今年中に明け渡す契約だという。

 ロビーにはサッカー関係の展示と原発作業員への激励メッセージなどが展示されている。
 写真右のガラス壁の向こうはサッカーのピッチだったが、現在は駐車場になっているのがわかる。 

 中庭みたいなところにプレハブの売店があった。弁当や菓子パン、カップ麺などが売られている。
 張り紙によれば日祝に加えて土曜も休みになった。作業が落ち着いてきたのか、他の店ができて需要が分散したせいかもしれない。

 売店のそばで猫がたくさん飼われていた。餌がたっぷり置いてある。
 作業員たちの癒しになるのだろう。船乗り猫みたいなものか。

 見学者はJヴィレッジ内で本人確認とレクチャーを受ける。申込時に指定した身分証明書(パスポートや運転免許証など)を示す。
 1F構内は保安上の理由から、自由な撮影はできない。見学者はカメラや携帯電話をここで預ける。
 今回は開沼さんが代表して撮影し、参加者は後でその写真の提供を受けた。左の写真以降、見学終了まで、特に断りがなければ開沼さんの写真である。

 東電のバスで1Fに向けて出発する。車内でも東電の人が解説したり、電離箱で線量を測ったりする。
 解説は手慣れていて、丁寧に教えてくれる。バスの前側、中央、後ろ側の三箇所に人を配置して質疑応答をしやすくしている。
「東電」と書いたが東京電力ホールディングスのもとに福島復興本社、福島第一廃炉推進カンパニーがあってややこしい。ここではひっくるめて東電と呼ぶ。

 左は福島県のサイトにあった図だ。広野町から6号線を北上していくと、富岡町で避難指示区域に入る。下の写真の撮影位置ははっきりしないが、避難指示区域は大体こんな眺めで、北川玉奴の歌そのままだ。ただし牛は見かけなかった。農地や道端に人がいたら、たいてい除染作業員である。


 富岡町のひとつ北が大熊町で、1Fの大部分はこの町内にある。国道6号から中央台の標識を右折すると1Fの敷地が見えてくる。


 バスは敷地の西端にある入退域管理施設の前で止まった。
 ここであこがれの白い防護服、タイベックに着替え――るわけではなく、ビニールの靴カバーと手袋を着用するだけだった。昨年末、糸井重里らが入ったときは簡単なマスクをつけていたが、それすらない。放射線オタクの私としては物足りない。
 しかし左のようにラックにびっしり収納された線量計を持たされたので、私のテンションは復活した。線量計ラックの張り紙に「警報設定値0.30mSv」とあって、μではなくm単位なのがさすがである。
 入退域を管理するゲートに入り、テンキーに指示された数字を入力すると内側の扉が開き、にこやかな係員に「はい、ご安全に」と声を掛けられた。
「『ご安全に』キターーーー!」と、私は心でガッツポーズを取った。私は四半世紀におよぶ放射線オタクなので、線量が高いほどテンションが上がる。1F事故のときは1か月後に喜び勇んで福島入りし、ホットスポットを巡ってはサンプル採集したものだ。願わくばここでも高線量の瓦礫を持ち帰りたい。実行はしなかったが、願いはした。
 昨夜のライブでは東北人のパワーに圧倒されたが、ここでは私がまつろわぬ民である。私は放射線に加えて巨大な建築物、工場や送電鉄塔やダムや橋や鉱山など、神をも恐れぬテクノロジーを見るのが三度の飯より好きだ。なんと言われようが、好きなものは好きだ。テクノロジーを築いてこそ、私は人類を愛する。

 再びバスに乗り、構内の道路を北進する。かなり樹齢のある並木があった。敷地内の森はタンク類を設置するためにかなり伐採されたが、所長が「ここは残せ」と指示したそうである。
「長丁場になるんだ、潤いがほしいじゃないか」
 そんなことを考えたのかもしれない。

 バスは東に向かい、乾式キャスク仮保管所の横を通って、免震重要棟に来た。事故当時の拠点となった、思い出深い場所だ。窓はすべて鉛で覆われている。このあたり、バス車内において、私物の線量計では7μSv/h程度だった。



 免震重要棟の玄関部分。靴を脱いでレジ袋に入れる。作業に必要な手袋類や飲料水が並んでいる。
 冷蔵庫のようなものに詰まっているのは保冷剤で、作業員はこれを体のあちこちにつけて暑さをしのぐ。
 大きなスクリーンには敷地内モニタリングポストの値が表示されている。オレンジ色のスポットが三つあるが、1~3号炉の近くだ。敷地の大部分は1~2μSv/hというところだろうか。



 免震重要棟の西隣にあるのが多核種除去設備、ALPS群だ。汚染水をフィルターする1Fの救世主だが、これも苦難の末に安定運用にこぎつけたものだ。事故直後はアメリカ製のキュリオン、フランス製のアレバを使ったがはかどらず、次に来たのが東芝製のサリーで、我々は「頼むぞサリーちゃん」などと言いながら応援していた。それもまだ不十分で、決定打になったのがALPSだ。
 ALPSも無印ALPS、増設ALPS、高性能ALPSと三代ある。写真左の家型の建屋は高性能ALPSで、その白さがただまぶしかった。写真右は無印ALPSだろうか? 内部に複雑な配管やタンク類が見える。
 汚染水の除去設備と聞いて、なんとなく「浄水器のでかいやつ」ぐらいに思っていなかっただろうか? 私は一応理解していたつもりだったが、生で見たALPS群の清潔感とボリューム感は圧倒的で、これ自体がちょっとした発電所並の設備だった。その横をゆっくりバスで通過するところは、スターウォーズの宇宙戦艦をすれすれに飛んでいる心地がした。
 ALPSの威力は絶大だが、トリチウム(三重水素)だけは取り除けない。トリチウムは化学的には水素なので、酸素と結びついて水の形で存在する。要するにただの水だ。それゆえ普通の水と分離できない。
 トリチウムは生物への影響がきわめて弱く、半減期はたった12年なので、薄めて海に流してしまえばいいのだが、風評というやるせない理由でそれができずにいる。皆が根拠のない忌避感さえ持たなければ、廃炉作業は進捗しコストも削減できて、全員ハッピーになるのだが。

 ALPS群の横を西進して交差点にさしかかると、海に向かう長い下り坂がちらりと見える。私は生で見損ねたのだが、開沼さんはここで素早く望遠撮影をしていた。
 遠くにカバーで覆われた1号炉、青い模様の残った2号炉の建屋があり、その向こうに海が見える。あの日、このスロープを濁流が駆け上ってきたのだ。

 バスはそのスロープを通らず、東南東に向かう道に入った。
 右手に汚染水タンク群が見える。写真左の青白いタンクは溶接型の新しいタイプ。右のフランジ型タンクは漏洩が起きやすいので、順次溶接型に置換しているとのこと。
 ちなみに、左は2013年8月27日に沖合10kmを航行する太平洋フェリーから撮影した1Fだ。左のほうの台地上にタンクがみっしり並んでいるのが見える。
 この光景を見たときは「トイレのないマンション」というフレーズが浮かび、その印象がずっと残っていた。
 フランジタンクが林立して敷地を圧迫し、漏洩のリスクも増大し続けるイメージだったが、今回の視察でずいぶんすっきりしているのがわかった。
 もしかして見学コースの周囲だけきれいにしているのでは?と疑って文献を確認してみたが、順調にリプレースされているようだ。

 台地部分から4号炉に向かう坂道を降りてゆく。右側の擁壁はフェーシング処理がしてあり、雨水の浸透を防いでいる。
 ここからの見どころは地下水の処理だ。線量が多くてあまりゆっくり見られなかったのが残念なのだが――

 これはHIT建屋だろうか。台地を降りたところ、1~4号炉と同じ高さにあるので、ここにも地下水が出入りするようだ。1~4号炉はおいそれと入れないから、このあたりの建物が地下水対策の試金石みたいな位置づけになるだろうか。質問すればよかったのだが、バスはどんどん進み、見どころは山ほどあるのでスルーしてしまった。 

 





 4号炉の横にKOBELCOの800tクローラークレーンが鎮座している。日本に何台あるだろうか、このクレーンだけでもちょっとした見ものだ。その履帯のすぐ横に51番サブドレンピットが見える。地下水位を調節するための井戸で、原子炉建屋の周囲にたくさんある。名前はよく聞くが、実際に見るととても小さい。
 道路を挟んで山側には凍土遮水壁を形成するための配管や観測井戸があった。凍土遮水壁の働きは、報道では不調ムードだったが実際には所期の成果が出ているとのこと。
 凍土遮水壁は地下にあるので目立たないが、これだけの領域を凍らせてコントロールするなんて、サンダーバードみたいな奇抜な方法をよく実行に踏み切ったものだと思う。

 4号炉はというと、ここは核燃料が炉心に装填されてなかったので、メルトダウンも起きなかった。ただ3号炉から流入した水素で水素爆発が起きて建屋が吹き飛んでいる。核燃料を納めたプールは健在で、ここから燃料棒を取り出す作業がすでに終了している。そのためにガントリークレーンを馬乗り式に据え付けた。写真で右側の太い骨組みと白いカバー部分がそれだ。馬乗りといっても、荷重は建屋にかかっていない。単一の荷下ろし作業のためにこれだけの大工事をやってのけたのはすごい。莫大な費用がかかった思うが、前例のないことをどんどん実行していけるのは、ある意味土木屋の夢ではないだろうか。

 バスは厚い鉄板を敷いた道を進む。3号炉の前にさしかかると急に線量が上がり、私の線量計99.99μSv/hになってオーバーフローしてしまった。3号炉のそばの排気筒が高線量だと聞いた。作業員もタイベックとフルフェイスのマスク姿だ。このあたりには津波の爪痕も残っている。
 写真左はこの位置から撮った1号炉と2号炉で、開沼さんはここでも素早く望遠撮影していた。
 私は「おおー、来たぜ来たぜ、これだよー」と心で叫んでいたのだが、バスはすぐに西に曲がって坂を登り、低線量地帯に移動してしまった。
 不謹慎をお詫びするが、これでも放射線オタクだから量的な限度はわきまえている。そもそも東電が見学者を危険にさらすわけがない。長居しなければいいのだし、ごく短時間の体験が一生記憶に残り、折にふれていろんなことを考える材料になるのだから、これは素晴らしい体験だ。廃炉が終っていない今がチャンスだから、みなさんも行ってみてはいかがだろうか。
 それでお前は何を思索したのかと聞かれると、ラジウム温泉に浸かったようなもので「いやあ、気持ちよかった」ぐらいしか出てこないのだが――まじめな話、発電用とはいえ人類が本気で濃縮した核物質は手強い。その実感は得られた。デブリ除去は相当な難工事になるだろう。近年のAI技術、ロボット技術の進展を思えば、意外にあっさり片付くかも?とも思うのだが。

 バスは北側の高台にまわり、5号炉6号炉の前を通った。この2基はほとんど被害を受けていない。
 事故直後、海水注入で活躍したコンクリートポンプ車が止まっていた。万一に備えて待機させてあるのだという。「ゾウさん」「シマウマ1号」とニックネームが貼ってあった。最近、とある映画で活躍したのを憶えている人も多いだろう。

 バスでの構内見学を終えて入退域管理棟に戻った。線量計の値は0.01mSvで、四捨五入を考えると5~14μSv被曝したことになる。これは三重県で暮らして数日程度の線量にすぎない。

 渡り廊下を通って、隣に新しくできた大型休憩所に移動する。1F初のコンビニ、ローソンが入っていて、日頃からコンビニに依存した生活をしている私は「ああ、これで安心」と反射的に思った。
 エレベーターで高い階に移動すると展望窓があって、構内が一望できた。

 そこには1Fの模型もあって、これがよくできていた。分割すると地層が現れ、遮水凍土壁と地下水の関係がわかる仕組みだ。原子炉の山側と海側に凍土壁を設けて地下水の移動をコントロールし、原子炉周辺のサブドレンピットから排水して地下水の圧力をほどよく保つ。化学実験室にあるドラフトチャンバーと似た考え方だ。サブドレンピットは原発の建設時からあって、施設全体を"地下水に浮かぶ船"のように想定していた。
 1Fは刻々と変化しているので、年次ごとにプラモデル化したらいいと思う。

 大型休憩所三階の食堂で、お楽しみの昼食をいただく。麺類や定食、丼物など、いろいろ選べるのだが、この日はこのトマトカレーが手書きPOPで強くおすすめされていたのでそれにした。地元産のトマトを大きく使い、ルーと混ぜると酸味と辛味が絶妙なハーモニーを奏でた。これで380円という安さだ。

 我々は1Fに別れを告げ、去年大熊町にできた福島給食センターに移動した。オール電化で3000食を一度に提供する能力がある。さっき食べたカレーもここで作られて、暖かいまま運ばれた。四角い建物の一辺が入荷バース、別の一辺が出荷バースになっていて、トラックが搬入出口に密着してどんどん運べる設計だ。
 写真がなくて残念だが、調理場をガラス越しに見下ろせる通路に案内された。
 説明してくれたのは、肩書きを忘れたが所長クラスの人で、「どうしても見学コースを作りたかったんですよ」と言った。大熊町の人が帰ってきて、ここで働いているところを見てほしい、と言う。そして地元食材の使用で風評被害の払拭、食を通して1Fと地元の交流が生まれるのを期待している。
 実際、舌と胃袋で感じるリアリティは格別で、文章や写真では伝わらない。地元食材を地元の人が作り、1Fで働く人々と「同じ釜の飯を食う」ことで距離感が一気に縮んだ気がした。レストランを開いて一般販売したらいいと思う。

 ツアー一行はJヴィレッジに戻り、解散となった。ガイドしてくれた東電のスタッフはどなたも誠実で、事故への謝意とともに、ここで起きていること、試みていることを、できるだけ伝えようとしていた。
 私は来る前から1Fが好きで強い関心を持っていたから、謝意だけでなく、スタッフが抱いている誇りや「ここを見せたい」という思いにも気づけたつもりだ。バス車中での解説、各所にある見学者への気配り、ルート設定、大型休憩所の展望窓や模型、給食センターの見学コースなどに「見て見て、ここを見て」「ここまできたよ」という気持ちが横溢していたと思う。
 オタクという種族はこれが得意なのだが、1Fのような複雑なシステムを好きになるには、まず対象をよく知り、理解することだ。理解すればそれを構築した人の姿や思いが浮かび上がってくるから、面白さや見どころがわかってくる。これはスポーツ観戦と同じだ。
 さらに好きが高じると他の原発や火力・水力発電所なども調べ上げ、比較し、一晩中蘊蓄を語れるようになる。見学もリピーターになってガイドの人と顔なじみになり「おや、冷媒の配管が変わりましたね?」「そうなんですよぉ!」みたいな会話を繰り広げ、一般人を置き去りにするのだが、そこまでやる必要はない。そうなる前の段階で、漠然とした嫌悪感や恐怖感は雲散霧消していることだろう。

 さて、見学レポートからは少し外れるが、私の東電に対する認識を語っておこう。
 いまの日本において「東電」「福島第一原発」は諸悪の代表のように言われることがよくある。そういう人がこの記事を読めば「お前はなんでそんなに無邪気なの?」と首を傾げるだろう。その疑問に答えるためだ。
 1F事故で東電を恨む人は少なくないが、私は当初から「この事故は日本全体で受け止めるべき」と言ってきた。確かに、10mを超す津波が押し寄せる可能性は事故前にも指摘されていた。だが、ただちに万全の対策が取れただろうか。想定する災害が10年に一度、100年に一度、1000年に一度、と頻度が下がるほど、対策の規模とコストは指数的に大きくなる。頻度が稀なのにコストは巨大になるわけだ。そんな想定に、ただちに応じられるだろうか。
 これは被災地のすべてについて言えることだ。いつか大津波が来ることはわかっていた。多くの被災地はできるかぎり備えていたが、備えきれず、これを天災として地域全体で負っている。
 1Fには東電という明確な責任者がいるが、責任者がいれば人災と決めつけていいのだろうか。本質的には天災に備えきれなかった地域のひとつではないか。誰かを吊し上げるより、地域全体で力を合わせていく場面ではないか。

 東電の隠蔽体質ということもよく指摘される。そこには正しい指摘もあるだろう。
 あの時、東電に求められた最善の対応は原子炉の状態を正確に伝えることだった。だが、あの時点でそれを知る人は地球上にいなかった。
 次善の対応としては予想を語ることしかない。
 東電は事故当時、楽観的な予想ばかりを語り、それはどんどん裏切られていった。メルトダウンという刺激的な言葉も避けようとした。
 だがあの時、最悪の可能性ばかり語っていたら、無理な避難を引き起こし、福島で2000人にも及んだ災害関連死はもっと増えただろう。いっぽう5年経った今も、放射能そのものによる死者は確認されていない。東電の発表は自身の信用を失ったが、被害を最小化する点では善戦したのではないか。

 異論もあるだろうが、私はそういう認識でいるので、東電や1F関係者を無駄に恨んだり、不信感を持つことはないと思っている。
 東電の言うことなんか信じられるか、と突っぱねていたら、いつまでたっても事態は前進しないだろう。1Fの状況については頻繁に資料を公表しているから、少し頑張れば検証できる。民間組織でこんな大規模な作業をしていたら、そうそう嘘などつけないことがわかるはずだ。

 今回の視察で印象に残ったのは、現場がすっきりと整理整頓されていて、混乱がみられなかったことだ。そして真新しいテクノロジーに満ちている。
「ここはもう廃墟ではない。人類最先端の建設現場だ」と思った。ひとつの敗戦処理ではあるし、苦悩と恐怖から始まったことは確かだが、それは出発点の話でしかない。
 いま1Fで進められていることはアポロ計画に匹敵する、大胆に新しい技術を投入した、最先端の開拓事業だ。強固で巨大な建築物に入り、溶けて固まったデブリを取り出す技術があれば、どんな極限作業もこなせるし、宇宙開発や惑星探査にも応用できるだろう。技術だけでなく、地域社会との協調や相互理解のメソッドにも大きな挑戦がある。ここで得られた知見は世界中がお手本にするにちがいない。

 1Fはいずれ、福島の宝になると信じている。お花畑といわれそうだが、これでもSF作家だから、未来観には少々心得がある。現代が過去より悪くなったためしはない。昔が良く思えるのは自分の若い頃がなつかしいからで、社会は常に改善している。
 未来が良くなる最大の要因は、テクノロジーが進歩するからだ。テクノロジーは人を幸福にするとは限らないが、人の自由度を確実に増やす。その自由度が幸福を模索する。

 私が想像する1Fのゴールは、敷地全体を使った大きな公園だ。広い駐車場と道の駅があって、地元の産品が売られている。小さな遊園地や野外ステージ、セミナーハウスや宿泊施設もある。修学旅行のバスもここに立ち寄る。
 免震重要棟は展示館になり、ここに至るまでの歴史が映像や模型で説明されている。
 ロボットが運転するカートに乗って坂を下りていくと、海辺に大きな正方形の花壇が四つ、見えてくる。北側のひとつは少し小さく、かつての原子炉建屋の輪郭をかたどったものだとわかる。子どもたちはその眺めにもすぐ飽きて、遊覧船に乗ろうと言い出す。防波堤には釣り人と、カモメに餌を投げる人がいる。
 私はベンチに腰掛け、遊覧船を待ちながら、潮風の香りをかぐ。そしてポケットから線量計を出して――小さなため息をつき――「あの頃は熱かったなあ」と感慨にふけるのだ。

まつろわぬ人々の福島第一原発ツアー(その1 いわきクイーン編)


 2016年7月22日、1F(福島第一原発)視察ツアーに参加してきた。GCM(ガイガーカウンター・ミーティング)、GCM2に続き、八谷和彦さんから声を掛けてもらった。ツアー参加者もGCMのメンバーとかなり重なっているが、今回、中心になって動いてくれたのは開沼博さんとzabadak小峰公子さんである。
 結果、こんな参加者になった。

 漫画家 しりあがり寿鈴木みそ芳賀由香
 物理学者 菊池誠
 アーティスト・芸大教授 八谷和彦
 元農水省のひと 原田英男
 音楽・舞台関係 白崎映美、近藤達郎、内田ken太郎、熊谷太輔、小峰公子、村上亜紀子(舞台美術)、望月秀城(ソニー・ミュージックエンターテイメント)
 ライター 橋本麻里、しかのつかさ
 作家 野尻抱介、木村友祐

 木村友祐という作家を私は知らなかったので、出発前、kindleで『聖地Cs』を読んだ。
 なんだか暗い話である。子供の頃は親に虐待され、結婚してからは夫のDVを受けていた主婦が、家出して原発事故の警戒区域内にある「希望の砦」へボランティアに行く。
 希望の砦というのは被曝牛を集めて飼育している牧場で、実在のモデルがある。この運動にはいろいろ問題があるように思うが、作中では善し悪しを語らず、そこに集う人と牛のありさまが淡々と描かれている。
 出口の見つからないままに終る物語かと思いきや、不意打ちのように、主人公が吹っ切れる瞬間が訪れる。それはぐさりと刺さり、あるカタルシスも覚えたが、うまく言葉にならなかった。
 あれはなんなんだろうな、と思いながら、7月20日、軽自動車を運転して出発した。深夜に大洗に着き、そこで車中泊し、翌日いわきに入った。1F視察の前日である。

 その日の宵、いわき駅前のライブハウス、クイーンで視察メンバーによるライブがあった。
 早めに来て道端で煙草を吸っていると、マイクロバスが止まり、作業服の男が二、三人降りて、近くのホテルに入っていった。そんな場面を二度見かけた。後で聞いたところでは、原発作業員だということだった。ひと頃よりは減ったが、今もいわきは1F廃炉作業の前線基地であるようだ。
 19時、zabadak 白崎映美&東北6県ろ~るショー 北川玉奴 ライブが始まった。
 zabadakは7月3日に吉良知彦が死去したばかりで、小峰さんがメインボーカルをつとめた。
 アコーデオンで弾き語る「星ぬ浜」から「遠い音楽」へ入ったあたりでうるっときた。小峰さんも決壊しかけていたが、気丈に歌いきった。この分野は詳しくないが、琉球や東北民謡を織り込んだ曲が染み入った。
 北川玉奴はアコースティック・ギターの弾き語りで、原発作業員の知人から聞いたという日常をペーソス豊かに歌った。Jヴィレッジから1Fに向かう国道6号線の情景を歌った「ルート6」がリアリズムであった。私も今回、国道6号南相馬まで走りたくてマイカーで来たのだった。
 そして白崎映美&東北6県ろ~るショーである。
 赤いギリースーツのような衣装をまとったナマハゲが、マイクを握って吠え始めた。


 ナマハゲは客席を練り歩き、私のカメラに噛みついてきた。こういう場所でカメラを使うことがどうなのか知らないが、私はこの事態を世界に伝えねばと、ロバート・キャパのようにシャッターを切り続けた。

 赤いナマハゲ、白崎映美は「東北人は暗い… 暗い…」とつぶやくなり「cry baby !!!!」と絶叫した。
 その声にひっ叩たかれるようにして、私の中で歌とあの暗い小説『聖地Cs』がひとつになった。東北人には「まつろわぬ民」の血が流れており、その爆発力をずっと心に宿しているのだ。
 エンディングは客席を巻き込んだ『丘を越えて』の狂騒的な斉唱になった。
 zabadak、北川玉奴が加わり、しりあがり寿さんまで引っ張り上げられて跳ねまわった。


 ライブ終了後、メンバーはいわき湯本のこいと旅館に移動し、温泉街の居酒屋で飲んだ。隣にかわいらしい眼鏡っ娘が来て喜んでいると、この人がさっきの赤いナマハゲだと教えられて驚愕した。2013年に活動を停止した上々颱風のボーカルの人でもある。
 そこで初めて知ったのだが、白崎映美は木村友祐の『イサの氾濫』を読んだのがきっかけで東北6県ろ~るショーを始めたのだった。そのアルバム『まづろわぬ民』にも木村本人による『イサの氾濫』の朗読が収録されている。
 そういう予備知識を持たずに、ライブで歌と小説が結びついたのは、両者の表現力が半端ないからだ。
あー、やっぱり東北の人は怒ってるんだなあ。そりゃ怒るよなあ」――と、当たり前のことを、宴会がお開きになってからもつらつら考えていた。
 ネット上で「福島の人はもっと怒っていい」と述べたこともあるが、自分は外の人だから、立ち入ったことは言えない。それゆえ私は震災直後から、自分本位、人でなしの態度を貫いてきた。「人でなし」については語弊を生みやすいが、真意はここここに書いた。
 よけいなお節介をしないかわり、現地の人の気持ちにも立ち入らずにきたが、この日のライブで、いくらかつかめた気がした。というか、情念の奔流を浴びた。
 東北6県ろ~るショーが体現しているのは単なる怒りではない。怒るのも笑うのも泣くのも、俺らの気持ちを貫け、まつろわずに生きろ、と訴えている。
「おめえら、その気持ち、どうやって表したらいいか、わかんねえが? だったらおらといっしょに来い、こうやって歌え! 踊れ!」と手を振り回している。そんなライブだった。

 (その2 Jヴィレッジ&1F編 につづく)

 


ニコニコ動画の楽しさは昔と変わっていない



 久しぶりにこんな動画をUPした。このブロマガでは2回にわたって記事にしたイギリス戦車料理のことだ。
 BVを普通にセットアップして実演してみせるだけなら、ブロマガで書いても大差ない。だが、以下のような"学園十色です!"動画にインスパイアされた。これを料理でやったら面白いんじゃないか?と思ったわけだった。

 



 戦車の給湯器だけを使って各校の料理を作り、動画撮影するのに三日ほどかかった。料理だけならもっと短時間ですむのだが、三度の食事になったので。
 これを編集するわけだが、実に三年振りの動画投稿である。現在のPCにはAviutilがセットアップしてなく、使い方もすっかり忘れていたので以下の動画4部作でおさらいした。これはまことにありがたいシリーズで、エンタテインメントとしても優秀なので、動画制作を始める人におすすめだ。


 動画編集ができたら、つんでれんこエンコードする。このへんがニコニコ動画のめんどくさいところだが、細かいことはすべてつんでれんこ任せにしている。コマンドプロンプトでの操作にもかかわらず、つんでれんこのUIはビギナーに優しく、安心感がある。

 さて、ここからが本題なのだが、これをニコニコ動画にUPしてからが面白かった。
 ニコニコ動画というものは、ひとたび投稿されると、さまざまな方法でいじられる。すなわち――
(1) コメントがつく。「先生何やってんすか」等。
(2) タグが編集される。(自分でつけたタグは、料理/ガールズ&パンツァー/ニコニコ技術部/軍事、の4つだけ)
(3) マイリスされる。
(4) 市場に商品が貼られる。
(5) 広告される。
(6) ツイッターフェイスブックでシェアされる。
(7) 関連動画が表示される。

 (1)~(7)で変化があるたびに、うp主である自分も反応する。コメントを読んで笑ったり首をかしげたり、広告主が広告している他の作品を見に行ったり(自分の動画を広告してくれた人が広告した動画なら、自分にとっても面白いはずだ)、市場の商品を吟味し、いくつかは購入したり、動画についたタグから他の動画を検索したりする。動画の間延びした部分や説明不足な部分がコメントで補完されて情報密度をあげていくのも面白い。こんなことをしているだけで一晩つぶれてしまうから困ったものだ。
 私はランキングをあまり見ず、ブックマークしたタグ検索から新着を探すことが多い。だからタグ検索は日常化しているのだが、自分の動画に誰かがつけたタグを辿るのは一味ちがう。そこに自分の仲間がいるかもしれない、という期待を持つからだ。思えばボカロ界やニコニコ技術部での交友関係も、こうやって拡げていったのだった。
 他の項目についても同じで、自分の動画を起点にすると、あらゆるものが、どこかで自分とつながっているから、興味の持ち方が断然ちがう。

 そうして再発見したのは、ニコニコ動画の一見まとまりのない、複雑怪奇な機能や画面デザインは、すべてうp主のためにある」ということだ。もちろん、視聴者側の楽しみでもあるのだが、ある動画を起点にした展開を追うとき、主人公はうp主である。この楽しさはうp主になってみないとわからない。
「お前は有名人だから、そりゃ楽しいだろうよ。俺なんか何度UPしても鳴かず飛ばずだ」
 と思う人もいるかもしれない。
 だが、70作以上になる私の投稿動画で10万再生を超えたものはわずかに4つしかない。また、渾身作に限って伸びないことが多い。
 Twitterのフォロワーは2万人弱だが、一度のツイートで反応してくれるのは20~30人程度だ。これは繰り返すほど効果が落ち、しまいにはウザがられてリムーブされる。自分のツイートのRT・ふぁぼもたいてい数件~十数件で、3桁に届くことは稀だ。
 要するに私はたいした有名人じゃないし、影響力も小さい。士農工商SF作家という言葉もある。私を有名人だと思っているなら、それはあなたがオタクだからである。

 結局、友達やファンが見てくれるのは公開直後だけで、それ以降に伸びるかどうかは内容次第だ。ランキングに顔を出すようになると、私のことを知らない人ばかりが見ることになる。
 今回の動画は一週間ほどで1万再生に届いた。これは料理、技術部、ガルパン、軍事という
それぞれ人気のある異分野にまたがった内容(およびタグ設定)が功を奏したと思う。
 そしてゲーム実況やボカロ音楽などと較べて内容がユニークで、競争相手がほぼ皆無なことも大きいだろう。そのおかげか、投稿から半月ほど経ってニコニコ動画のTOPページで紹介された。これで息を吹き返し、再生数は2万を超えた。広大なニコニコ動画で居場所をつくるためには、ニッチを探すことも大切だ。

 ニコニコ動画も始まって10年が経ち、私もこのところ倦怠感を覚えていた。周囲でも「昔のニコニコは楽しかった。いまはどうも殺伐としていて…」という声を聞く。かつて活発に活動していた人が動画投稿をやめて、オフ会やイベントに来るだけの同窓会状態になっていたりする。
 しかし久しぶりで動画を投稿して再発見したのは、掲題のとおり、ニコニコ動画の楽しさは昔と変わっていないということだ。
 昔の動画プレイヤーはシンプルだった。現行の多機能なQプレイヤーは悪評もあるが、すべて必要があって改修されたように思える。赤の女王仮説みたいなもので、昔と変わらない楽しさを提供するために、ニコニコ動画は変わり続けてきたのかもしれない。
 変わったのはユーザーのほうで、出会いや交流に飽和したから、意欲が薄れたように思える。私も人付き合いは苦手で、独りで気ままにやるほうがいい。だが、ネットを経由した、ゆるやかで縛られない交流は維持したいし、新しい出会いを求めてもいる。
 大きなお世話かもしれないが、私と同じような倦怠感を抱いている人がいたら、「最近、動画をUPしたか?」と自問してみよう。答がYESなら、その内容を見直してみよう。
 答がNOなら、なにか自分の好きなことで、他の人があまり扱っていない事柄を動画にしてUPしてみてはどうだろうか。
 旅、料理、スポーツ、ペット、手芸、工作などが動画向きだと思う。自分の好きなものの良さが伝わるように、見る側の立場に立って丁寧に組み立てた動画なら、必ず同好の人が見つかると思う。実際に交際しなくても、そんな人がいるとわかるだけで、心の糧になるはずだ。

 私が視聴して、いいなあ、このうp主と知り合いになりたいなあ、と思う動画は、あまり先鋭的ではなく、マイペースで、好きを貫いたものが多い。ランキングはめったに見ないから、タグ検索で見つかる、何年も前からひっそり佇んでいる作品ばかりだ。
 懐古Pもそんな一人で、その名の通り、ヒット性の人ではない。本人もヒットが出ないことを悩んでいるようなのだが、私に言わせれば自業自得で、ネタがマニアックすぎて誰もついてこれないのである。なぜもっと一般受けするネタにしないのかといえば、好きを貫いていて、そこが譲れないからだろう。ニコニコ動画にはこういう人が大勢埋もれている。
 その懐古Pが最近、NHKの人形劇を思わせる力作を発表した。それもすぐに動きが止まり、「やる気をなくさなければいいなあ」と気を揉んでいた。しかし、ワン&オンリーな作品ゆえか、ニコニコのTOPページで紹介されて息を吹き返し、VOCALOIDカテゴリで毎時1位になった。
 私のブロマガに貼ったところでたいした宣伝効果はないのだが、ここに紹介しておこう。
 くれぐれも「尻Pのブロマガから」などとコメントして画面を汚さないように。


サミットで厳戒態勢の賢島を見てきた


 およそ一年前、G7サミット会場が賢島に決まってから、三重県のローカルニュースは連日この件を取り上げてきた。いよいよその日が近づいてきて、5月19日には県内のクレー射撃場がサミット明けまで閉鎖になった。
 賢島に通じる陸路は二箇所の橋だけで、うちひとつは近鉄が並走している。この陸路も5月21日には閉鎖され、IDカードを持った人だけがバスで出入りできるようになる。賢島とその周辺に集まった警備陣は2万人以上になるという。
 こんな厳戒態勢はめったに見られるものではないから、シャットアウトの二日前、近鉄特急に乗って現地を見てきた。5月19日木曜日のことだ。

 伊勢志摩ライナーに乗ってみると、デッキのゴミ箱が封鎖されていた。「特別警備」の腕章をつけた黒服が車内を巡回し、駅のホームにも警官が立哨していた。


 賢島と本土との間は狭い水路(写真上左)しかない。ここにも警官が立っていた。賢島駅に到着すると、やはり警官がいた。


 賢島駅から港のほうに出ると、臨時の派出所ができていた。商店街はシャッターをおろした店が目立ち、閑散として、警官のほうが多いぐらいだ。
 駅前にいた年配の警官に「観光ですか」と穏やかに聞かれた。「はい。もうすぐ閉鎖されるっていうから、その前に見ておこうと思って。警備大変そうですね」と返すと、
「こうやって通る人全員に声をかけるぐらいにはねえ」と言って笑った。警視庁のプレートをつけている。物腰は終始穏やかで、威圧するどころか、観光の邪魔をして申し訳ないと頭を下げられるほどだった。


 伊勢志摩地方の特産といえば養殖真珠だ。老舗の松井真珠店は開店していて、重厚な調度類を撮影させてもらった。


 岸にも警官がたくさんいた。サーチライトとバルーン投光器らしきものもある。双眼鏡をさげた私服もいた。


 港には遊覧船と市営連絡船が発着しているが、多くは運休のようだった。食事のできる場所を探すと、海上の筏の上に「さざ波」という食堂があったので入ってみた。


 英虞湾が見渡せて、素晴らしいロケーションだ。客は2グループほど。主人に聞いてみると、いつもなら満席になるが、ゴールデンウイークが明けてからはすっかり客が減ったそうだ。魚介類は毎朝近くの市場で仕入れているそうで、新鮮かつ美味だった。
 食事を終えて岸の道に戻ると、近くに若い警官がいたので少し立ち話した。
「残酷焼きっていうんですか、ここを通るたびに食べたいなあって思うんですが、この服じゃ入れませんしねえ」と苦笑する。警視庁から出向してもう一か月ぐらいになるという。


「さざ波」で食事をしていたら、遊覧船エスペランサ号が戻ってきたので、これに乗ってみた。気楽な自主取材なので缶ビールなど飲みながら。その缶にも伊勢志摩サミットのロゴがあった。
 サミット会場が賢島に決まったのは、「島に通じる橋が二つしかなく、警備しやすい」がアピールポイントだった。しかしここはリアス式海岸多島海で、海からの侵入を警備するのが大変だとすぐにわかった。エスペランサ号に乗って見ると、海上警備の様子が見られた。

 これは海保が設置したブイで、警察の占用水域を示している。この水域にレジャー船は入れず、漁船などが入るときは交付された旗を掲げなければならない。



 左から神奈川県警、三重県警、海保。三重県警のは今回の警備のために揃えた「ジェット警備艇」らしい。


 左から海保、警視庁、県警ヘリ。県警ヘリは望遠撮影用のスタビライザーらしきものを装備している。


 所属不明だが水上バイクもいた。写真中・右で高台にそびえているのが志摩観光ホテル・ベイスイート。サミット会場になるのは本館ではなくベイスイートのほうだと聞いた。


 エスペランサ号は出口真珠の養殖場に10分間ほど立ち寄った。ここでは養殖真珠の核入れ作業を見学でき、もちろん買い物もできる。また、船からミキモト真珠の養殖場も見えた(写真右)。御木本は真珠養殖の開祖で、この施設には皇族しか入れないという。

 遊覧船を下りて、賢島駅から山側に歩いてみた。木造の志摩観光ホテル本館が目と鼻の先に見える。志摩マリンランドの駐車場には大阪県警のパトカーが並んでいた。(写真右)
 こちらはもう、サミット関係者と警備の人しかいない。私は見るからに場違いで、たちまち職質を受けたが「観光客です。閉鎖される前にサミット会場を見に来ました」とありのままに伝えて乗り切った。下右の二人はNHKの取材班で、夕方のローカルニュースに同じ場所が登場した。



 見られるところはひととおり見たので、サミット警備の取材はこれにて終了とした。
 賢島駅に戻ると、新旧の近鉄特急がそろい踏みしていて壮観だった。
 手前から、しまかぜ×2、ビスタカー伊勢志摩ライナー
 近鉄特急は全席指定で乗車料金の80%ぐらいの特急券を買わないと乗れない。子供の頃から近鉄特急はハレの日の豪華な乗り物で、格別な思い入れがある。


 帰途は鵜方駅で下車した。駅二階の観光案内所で配布しているという、ご当地キャラ・碧志摩メグのポスターをもらうためだ。
 現役海女さんから「女性蔑視」と批判されて物議をかもしたせいか、案内所内には掲示されてなかったが、受付の人に「碧志摩メグちゃんのポスターあります?」と言ったらすぐに出してくれた。「2枚セットになっております。屋内掲示でお願いします」と言われた。物議をかもしたほうと、穏健なほう(写真中央)のセットである。
 帰宅後、指示に従って、物議を醸したほうを屋内掲示してみた(写真右)。この程度で騒いでいて大和やIowaが指揮できるか、と思うのだが、まあ嫌がる人もいるだろうな、とも思う。
 私にはむしろ、海女さんの中にこの絵のエロチシズムがわかる人が一定数いたことが面白い。そこがわかるなら、なにも感じない二次元オンチの人より、むしろいい酒が飲めそうじゃないか?
 ともかくそんなわけで、伊勢志摩地方は風光明媚で由緒あり、真珠、海鮮料理、遊覧船、近鉄特急、スペイン村、萌えキャラと面白いものがどっさりある。『南極点のピアピア動画』の舞台もある。サミットが明けたら、いちど遊びに来てみてはいかがだろうか。

イギリス戦車料理をさらに究めてみた


ダージリン様の紅茶の完全再現、またはイギリス戦車の可能性について の続き。

   

 イギリス軍の戦闘車両に搭載されている給湯器 RAK15 Boiling Vessel (以下BV) だが、実用性十分だとわかったので、使いやすいように合板でラックを組み立てた。
BVの背面には2本のボルトが突き出ているので、これをラックに通して固定した。ネジはインチ規格で5/16だ。
 スイッチング電源は背部に置き、水滴がかからないようにした。BVの蓋を置く台も背部にある。
 これで快適に使える給湯ステーションができた。
 まだ完全に仕上げたわけではないが、使いながら改良点を探していくつもりだ。


 さて調理だが、逸見エリカはハンバーグが好物、と聞いたので、イギリス戦車で作れるかどうか検証してみた。
 内鍋にアルミホイルを敷き、挽肉と玉ねぎで作った生ハンバーグを置いた。余った玉ねぎも付け合わせ用に置いた。アルミホイルは内鍋を洗う手間を省くためのもので、なくてもかまわない。


 Hiモードで1時間ほど加熱してみると、ご覧の通り、たっぷりの肉汁に浸かった食べ頃のハンバーグができた。香ばしい焦げ目はないが、ほどよく火が通り、とてもうまい。
 イギリス戦車は車内でハンバーグが作れる。
 この検証によって、たとえば以下のようなシチュエーションが成立するので、誰か二次創作で膨らませていただきたい。

 エリカ「戦車で紅茶とはのんきなものね」
 ダージリン「紅茶だけじゃないわ。あなたのお好きなハンバーグも作れてよ」
 エリカ「なに…」

 (2016/05/21追記) ガストでおなじみ、チーズinハンバーグも試してみた。これはさらにうまかった。完成写真のおつゆは、すべてハンバーグから出た肉汁である。
 イギリス戦車は車内でチーズinハンバーグが作れる。



 さて、「1945年以降、英軍の戦車には紅茶を作る装置が標準装備らしい」海外の反応 という記事にこんなコメントがついていた。

以前イギリス軍で戦車に乗っていた者だ。
これは紅茶を作るためのものというよりもいろんなものに使われる湯沸かし器だよ。紅茶に使われることは多かったけどね。袋に入ってる食料をそれで温めたりとかするものだ。部品を取り出せばそれでトーストを作ることもできるんだよ。

部品を取り出せばそれでトーストを作ることもできる」とはどういうことだろう? ヒーター部分を取り出してパンを炙るのだろうか?
 BVの鍋の底の裏側はこうなっている。フィルム状のヒーターと温度センサ、溶断ヒューズが取り付けられている。このヒーターを外して使うのは、ちょっと難しそうだ。


 取り出すのは内鍋かもしれない。先のハンバーグがそうだったように、内鍋を使うと焦げ目をつけるのは難しい。だが外鍋の底に直接パンを敷けば、できるかもしれない。
 そう思って試してみたが、パン一枚では鍋底への密着が足りなかった。重しとしてもう一枚パンを重ねると、中央の写真のようにいい感じのトーストができた。ただ、何度かトーストを作っているうちに焦げ付きができてしまった。ともかく――
 イギリス戦車は車内でトーストが作れる。
 これはBVを故意に空焚きする、横着な使い方だ。しかしこの装置はHi,Loモードのサーモスタットのほかに、96℃で空焚きを検出、さらに172℃で空焚き検出、175℃で溶断ヒューズ作動、と三重のフェイルセーフ設計になっている。わきまえて使うぶんには問題ないだろう。

 前回の記事のコメントで「温泉卵が作れるのでは?」とあったので、それも試してみた。
 内鍋を使わず、Loモード65℃で30分ほど茹でてみると、ご覧の通り――
 イギリス戦車は車内で温泉卵が作れる。



 続いて『提督の食卓SPECIAL【特集】艦娘たちのカレー改』から、こんどは重巡鳥海のレシピに挑戦してみよう。


 これは要するにカレー味のロールキャベツだ。まずキャベツの葉を塩ゆでして柔らかくし、生ハンバーグを包む。これをブイヨンとカレーで味付けたスープに浸して煮る。さらにトマトソースを加えて煮る。すると――
イギリス戦車は車内で鳥海さんのシューファールン・アラ・トルコが作れる。
 BV以外に必要な器具はナイフとボウルだけだから、メスキットがあれば事足りることになる。
 味はといえば、「提督の食卓」レシピの中でもかなり上位に来るおいしさだった。なにしろ肉汁を一滴も逃さずスープに加えるのだから、まずくなるわけがない。キャベツの歯ごたえ、ハンバーグ部分の食べ応えも絶妙だ。
 さらにいえば、私はイギリスでこんなスパイスと旨味の効いた料理を食べたことがない。
 フィッシュ&チップスやイングリッシュ・ブレックファストのような揚げ物はうまいが、パイやプディングになると旨味や素材の風味が必ずといっていいほど欠如している。それはテーブルにある塩や胡椒では補いようがない要素だ。
 イギリスの戦車兵諸君に言いたい。君たちはいい装備を持っているのだから、もっと食生活を改善できるはずだ。日本海軍が戦前に考案したレシピを試してみてはどうかね。